祭竒洞

姑らく妄りに之を志す。

「瞼を持ち上げて呉れぇ、見えないわい!」 〜ヴィイの話 2

今回は前回の続きで、ヴィイのお話その2。

ちなみに今日、2/29は前回に出た聖人「聖カシヤーン」の記念日です。速水螺旋人さんの『靴ずれ戦線』やら大沢在昌さんの『魔物』あたりに出てきますので、興味ある方はご一読を。

というわけで今回も、基本的に本や論文を一部引っこ抜いてテキトーに要約し、【】で囲って私の無駄話、というスタイル。出典明記、自分の文章が主で引用が従、引用部分がどこかわかる明らかに、とかそういう引用ルールぶっちぎりですが、まぁ雰囲気でひとつ。

0.前回のあらすじ

【さて、前回はロシアの作家ゴーゴリの作品「ヴィイ」に登場する妖怪(?)ヴィイの姿には元ネタがあると思われる、というお話をしました。ノーム(地下の小人)たちの親玉で、地面まで届くような長いまぶたを持ち、一人では目が開けられないヴィイ
ロシア・ウクライナには視線に恐ろしい力を持つ悪魔的存在が伝わっており、その多くは長いまぶたやまつ毛や眉毛を持つために一人では目を開けられません。(熊手で目を開けさせるパターンが多いようですが、ヴィイにはその属性は継承されていません)。
また彼らのうちいくらかは地下や地獄にいる、といわれていますが、ヴィイがノームの親玉であり、登場時には全身が土にまみれている=地下から出てきたことを連想させるのは、こうした伝承を踏まえてのことである可能性があります。
しかし、ヴィイという存在の特徴はそれだけではありません。
今回はストーリーのうちヴィイにかかわる部分やロシアの伝承などからヴィイの伝承に迫ってみようと思います。】

1.似たようなストーリー

【まず、前回もご紹介したとおり、「ヴィイ」のストーリーでは魔女が話の発端となります。
(ストーリー超約訳:主人公の若者ホマーが死んだ魔女のため教会で三日間祈祷をする羽目になり、毎晩棺から出てくる魔女に襲われる。円を描いてその中で呪文を唱えていると魔女とその仲間の化物は円の中を見ることも入ることもできないので二日目まではことなきを得たが、三日目に魔女の呼ばれたヴィイが円の中をのぞき、結界を破ってホマーにとびかかった)】

諫早勇一ゴーゴリの『ヴィイ』の材源をめぐって」*1 や、鈴木晶「「すべての女は魔女である」ことについて」*2によれば、ロシア、ウクライナフォークロアには「死んだ魔女のために三晩教会で祈祷し、魔女が深夜に棺から出て、他の魔物および「最年長の魔物(魔女)」あるいは「魔界の王」の助けを借りて男を攻撃する」というほぼそのままの話があるようです。
そうした話では、助言者から授けられた知恵のおかげなどで難を逃れるようですが、ヴィイでは主人公であるホマーは助かりませんでした。
フォークロアでは最年長の魔物・魔女や魔界の王であったものをゴーゴリヴィイとしたことについて。実際にそうした伝承があれば面白いのですが、見つかっていないようです。前回挙げた「イワン・ブィコヴィチ」には魔女の夫が地下に住み、眉毛とまつ毛で目を開けられないとありますので、このあたりと結びつけたのでしょうか?】

2.ノーム

ゴーゴリは地下の小人であるノームの親玉としてヴィイを設定しましたが、そもそもロシアにノームは存在するのか。ドイツ語・ロシア語ではグノム、英語ではノームのようですが、面倒なので引用で別の表現している場合以外はノームで統一。】
そもそもロシア・ウクライナにノームは存在しない、というのが大方の見方だったようです。
理由として、スラヴ人にとって大地が特別な神格だったためである、ということが推測されています。*3
大地〜母なる湿潤の大地〜(マーチ=スィラー ゼムリャー)はキリスト教以前のスラヴ人にとっては最大の崇拝対象であり、その大地信仰はキリスト教時代になっても根強く残ったようです。
たとえば伝説等で、勇士たちが龍を撃ち、龍の血にまみれそうな危険に直面した際、(潤える母なる)大地に四方に割れて血を飲み干すよう願うと、大地は割れて血の流れを飲み込む、という描写がみられるようです。*4によれば、「地中の宝を守る醜怪な小鬼」がウクライナフォークロアにも知られてはいる、とのこと。しかしいずれにせよ、その名称はウクライナ語で<土鬼>を意味するもので、「グノム」がウクライナで知られた名称ではなかったことは確かのようです。
では、ノームがほぼ知られていないウクライナの伝説とされるヴィイは、どういう経緯でノームの親玉とされたのか。
まずノームはロマン主義文学で流行したドイツ的な妖怪であり、ゴーゴリもその影響を受けていたのではないか、という理由が考えられます。*5  たとえばゴーゴリの「ヴィイ」以前の作品でも比喩としてグノムが登場していますが、それらはロマン主義文学の影響であり、ヴィイがノームの親玉という設定もそこから着想したのであろう、ということです。
また、ロマン主義文学の中でも特にヴィイの材源となったのはドイツの作家フーケーの1811年の作品『ウンディーネ』(水妖記)ではないか、ともされます。*6
ウンディーネ』の第4章には小柄で土色の顔で大きな鼻を持ったグノム(ロシア語訳、ドイツ語原作ではコボルド)の首領、金属の塵埃をかぶった長い指で騎士を指さすグノムたちが登場するのですが、これがヴィイのイメージに大きな影響を与えたのではないか、とのこと。
ちなみに『ヴィイ』の話の中には、地面が海のようになりその中で水精(ルサールカ)が泳いでいるのが見えるというシーンがありますが、『ウンディーネ』には地中が透けてコボルトたちの遊んでいる姿が見えるシーンがあり、ここにも類似が見られます。
ウンディーネ』のロシア語訳は1837年刊行(第3章までの発表が1835年)であり、「ヴィイ」発表は1835年、執筆は1834年と予想されるため、『ヴィイ』の元ネタが『ウンディーネ』というのは若干矛盾しますが、訳者ジュコフスキイとゴーゴリには交友関係があったため、刊行以前に見た可能性もある、とのこと。
一方で諫早氏の前掲論文では、ヴィイは本当にノームなのか、という疑問も呈されています。
一般的なノームのイメージは「地中の宝石や貴金属などを守る小人で、皺だらけの顔と長いひげをもつ腰のまがった老人」(諫早前掲)といったところです。
こうして見るとヴィイのノームとの共通点は土にまみれた全身≒地中を連想させること、ずんぐり≒小さい、くらいですが、ヴィイは最初の版では巨人であったものが後に小人に修正されており、ゴーゴリヴィイに対して明確な【特にノームと重なるような】イメージを持っていなかったのではないか、と考えられます。
諫早氏は地の精というグノムの外来的イメージにゴーゴリの想像力を働かせてできたのがヴィイであると結論付け、そこにまぶたなどフォークロアのモチーフ、『ウンディーネ』のグノムの首領のイメージが介在する余地がある、としています。
またゴーゴリの他の作品で、大地と死者(祖先の悪霊)の結びつきを想起させるものがあり、地に根付いた祖先の悪霊、とくにゴーゴリ自身の死んだ父のイメージやゴーゴリの個人的心理的要素がヴィイに影響しているのではないか、ともしています。

3.その他諸々

【ノームがなんか妙に長かったので、以下簡単に。ヴィイはまぶたが長くて一人では目を開けられなかったわけですが、先述のように、スラヴ・フォークロアにおいて類似の奴等は、どちらかと言えば濃くて長いまつ毛や眉毛によって目を開けられない方が一般的のようです。】
伊東氏の前掲論文によれば、スラヴ人の俗信では身体的異常は悪魔的存在の属性と考えられ、濃すぎる体毛もそのひとつだそうです。例えば<濃い眉毛>、<鼻を覆うほど長く伸びた眉毛>などが挙げられ、これらは例えば夢魔、魔女あるいは妖術師、人狼のしるしとされました。南スラヴではこのような眉を持つ目は「狼の目」と呼ばれ、「邪視」をもたらすものともされたとか。以前に挙げたヴィイと似た奴等、視線で街を滅ぼしたりする奴等を彷彿とさせます。
ヴィイを見るに、ゴーゴリはそうしたスラヴの悪魔的存在について知識があった可能性が高いと思われますが、では何故フォークロアにあるように「まつ毛」や「眉毛」でなく、あえてヴィイの「まぶた」を長くしたのでしょうか。
ここには、「ヴィイ」という単語が何を意味するのか、という問題も関係してきます。
これまでの研究によれば、「ヴィイ」はウクライナ語でまつ毛を指す女性名詞「ヴィヤ」を男性形に変えたゴーゴリの造語の可能性が高いようです。これはここまでに出た「まつ毛の長い悪魔的存在」というフォークロアを踏まえてのことと考えられます。
更に、ウクライナ語でまぶたを表す「ヴィーコ」「ポヴィーカ」は「ヴィヤ」「ヴィイ」と音韻の上での連想が働くため、まぶたを長くした、という風にも考えられるようです。
【大雑把に整理すると、長いまつ毛や眉毛を持つという悪魔的存在を元に作られたと思しき妖怪のまぶたが長くて名前が「まつ毛」の変形、ただし「まぶた」とも音が似ている。ややこしい。】

さて、では結局なぜゴーゴリは「ヴィイ」という名前にしたのか。
伊東氏は、音韻的連想をその重要な理由として挙げています。たとえばヴィイ登場の場面では「ヴ」という音で始まる単語*7が並んでいます。「ヴィイ」はこうした音の連続を意識していたようです。特にヴィーヂェチ(見る)―ヴェーコ(まぶた)―ヴィイという音を念頭に置いていたのではないか、というのが伊東氏の見解です。ヴィイのまぶたが長いのも、ロシア語の眉毛(プロヴィ)やまつ毛(レスニツィ)では上記のような音の系列に加われないからではないか、とのこと。
まぶたの長い妖怪のウクライナ語での語源が「まつ毛」でも、ロシア人読者にとってはあくまで不可解な音表象に過ぎず、音のシンボルとしての機能の方が重要であったのであろう、と考えられます。

4.長いしわかりづらい、まとめろ。

【はい。】
【えー、前回書いたように、スラヴの民話にはヴィイそのものと似た妖怪(眉毛やまつ毛やまぶたが長いせいで眼をなかなか開けられないけど目を開けてこっちを見られたら大変)はいますし、ヴィイのストーリー全体と似た話も存在しますが、それらを結び付けたというのは今のところゴーゴリの独創と思われます。】
【一方で、ゴーゴリヴィイをノームの親玉、としていますが、スラヴ方面ではノームは存在しないか、少なくともマイナーのようです。おそらくドイツ・ロマン主義文学、特にフーケーの『水妖記』あたりからイメージを持ってきたのではないでしょうか。しかし、ヴィイはあんまりノームらしくなく、ノームを元にゴーゴリの個人的想像力(フォークロアとか、フーケーとか、死者との結びつきとか)を乗っけたものじゃないかと思われます。】
【で、ヴィイウクライナ語の「まつ毛」の変化形みたいだけど、姿としてはまぶたが長い。元ネタになった悪魔的存在は眉毛かまつ毛が長い。ややこしいけど、これはロシア語で文章を書いたときに「ヴ」で始まる音が重なるように考えた結果みたいですよ。】

【結局「見えないものを見破る」というヴィイの能力は元ネタがあるのかないのかは今のところわからずじまいでした。そこが要だと思うのに、残念。】

【次回予告! ここまでで拾い損ねたネタがあったらおまけ的に書くかもしれないよ! あと、描かれたヴィイ(主に水木しげる)について語るかもしれないよ!】

*1: 『人文科学論集』第15号 信州大学人文学部、1981

*2:ユリイカ』第16巻第8号 青土社1984) http://www.shosbar.com/works/crit.essays/subetenoonnnaha.html 

*3:鈴木前掲

*4:アファナーシェフ「スラヴ諸族の詩的自然観」(1865-)))またスミルノーフの「古代ロシアの聴聞僧」(1913)では1901年の報告でもペチョーラ河畔の分離派教徒は正教の司祭に罪を告解せず、「神様と潤える大地に告白する」と答えたとのこと。大地はあくまでも聖なるもので大地そのものが人格化されていたから下級霊の住める場所ではなかった、と考えられています。 一方で伊東一郎「《ヴィイ》――イメージと名称の起源」((『ヨーロッパ文学研究』第32号 早稲田大学文学部、1984

*5:伊東前掲

*6:伊東前掲・鈴木前掲よりカーリンスキィの説

*7:ヴォルク(狼)、ヴダリー(遠くに)、ヴィチ(吠える)、ヴェーコ(まぶた)、ヴィーヂェチ(見る)など

((ヴィヰをつれて來い!ヴィヰを迎へに行け!)) 〜ヴィイの話 1

今回は前回からの予告通り、ヴィイのお話その1。
……ようやっと、って感じですが。
例によってなんもかんもテキトー極まりないです。テキトーな引用とテキトーな解釈で本当に嘘ばっかりです。マジで本当じゃないですよ。嘘だと思うんなら一つ信じてみたらいかがでしょうか?
大体文中に出てくる日本語の参考文献読めば事足りる感じのヌル〜イ内容ですので、ひとつユル〜イ気持ちでお読みください。
あと同名の伺かのゴーストさんとは関係ありませんので間違って踏んだ方はひとつ戻るなり読むなりでヨロシクです。

0.そもそもヴィイって何ぞ

ヴィイとは一般民衆の想像力による所産である。小ロシア人の間でその名で呼ばれるのは侏儒の親玉のことで、その両目の瞼は地面にまで垂れている。この物語はそっくりそのまま民間の伝説である。わたしはこの言伝えに少しも手を加えまいとした。ほとんど耳にした通りの、素朴さのままに語るのである。」
ゴーゴリヴィイ」小平武訳より)

「ヴィヰとは、一般民衆の素晴らしい空想的創造物である。土精(グノームイ)(譯註―地下に埋藏される財寶を統御する醜い神々)の首魁で、瞼が長くのびて地面までもとゞく妖怪を、小ロシア人は((ヴィヰ))と呼んでをる。この物語は徹頭徹尾、民間の俗説である。わたしは一切それを改變することを欲せず、ほとんど聞いたとほりありのまゝにお話する次第である。」
(ゴオゴリ「ヴィヰ」平井肇訳より)

ロシアの文豪ゴーゴリの小説「ヴィイ」(Вий)に登場する妖怪だか悪魔だか何だかがヴィイです。上に引用したのはその冒頭。
この作品は1835年に発表された短編集『ミルゴロド』におさめられており、ロシアでは1967年・2010年と2度映画化され、一度は日本にも「妖婆 死棺の呪い」ないし「魔女伝説ヴィー」というタイトルで輸入されるなど、結構人気の作品。小説の日本語訳も上記2種の他、何種類か(確認できただけでもう2種類)あるようです。それと忘れちゃいけない我らが水木しげる御大がこれを元ネタに2回漫画を描いておりますし、ヴィイはキャラクターとして妖怪図鑑や鬼太郎などに登場させています。
さて、以下あらすじをざっくり紹介します。結末近くまで書くのでご注意。

ヴィイ あらすじ
 舞台は小ロシア(=ウクライナ)。ホマーという神学生は夏休みの帰省の途上、老婆の魔女に襲われるも、悪魔祓いの呪文でこれを撃退。逆に散々に老婆を打ち据えると、息絶えて倒れた老婆はいつの間にか美女に変わっていた。
彼は学校に逃げ帰ったが、ある金持ちに呼ばれ、その金持ちの死んだ娘のために三晩の祈祷をする事になる。彼女はホマーが先日打ち据えた美しい魔女であった。
 最初の晩にホマーが祈りを捧げていると、娘の死体が起き上がり、彼に向かって来た。ホマーが自分の周りに環を書き、悪魔祓いの呪文を唱えると、死体は環の中は見られず、環の中に入ることも出来ない。最初の晩はそのまま助かった。次の晩には魔女は仲間の魔物を呼んだが、同じようにしてやり過ごした。三日目 の晩には魔女と多くの魔物たちがホマーの描いた環の周りに集まったが、彼を見つけることが出来ない。

以下再び引用。

ヴィイを連れて来い!ヴィイを迎えに行け!」死人の声が響き渡った。(中略)間もなく重い足音が聞こえてきて、教会中に響き渡った。ちらと横目で見る と、なにやらずんぐりとして、頑丈な、足が内側に曲がった人間が連れて来られるところだった。全身真っ黒な土にまみれている。筋張った、頑丈な木の根さながらの、土のこびりついた手足が目についた。絶えずつまずきながら、重い足取りで歩んでくる。ながあーい瞼が地面まで伸びていた。その顔が鉄であることに 気づいて、ホマーはぎょっとした。化物は両脇を抱えて連れてこられ、ホマーの立っている場所のすぐ真ん前に立った。
「おれの瞼をあげてくれ。見えない!」とヴィイが地下に籠るような声で言った。魔物どもが一斉に駆け寄って、瞼をあげようとした。《見るんじゃない!》――となにやら内心の声が哲学級生にささやいた。が、我慢できなくなって、見た。
「ここにいる!」とヴィイが叫んで、鉄の指をホマーに向けた。そこにいた限りの魔物がホマーに飛びかかった。
(小平武訳より)

ホマーは恐怖のあまり死んでしまいますが、魔物たちも一番鶏の声に気付かなかったため夜が明けてしまい、壁に貼りついてしまう、という、大雑把に言えばそんなお話。

……一部昔やってたサイトのコピペですがご了承ください。あと平井肇訳は打つのがめんどいんで略。ご希望あればそのうち。

ってなわけで、上記の引用から分かるように、
A.ウクライナの伝説
B.ノームの親玉
C.長いまぶたで、自分では目を開けられない
D.実際に伝説が存在します
E.まぶたを上げれば普通の魔物が見えないものを見通すことができる
という辺りがヴィイさんの主な特徴とされています。

しかし、今現在、 D.実際に伝説が存在します は研究者の皆様に否定的な見方をされ、ゴーゴリの創作だというのが定説となっている模様。ヴィイそのまんまの伝説と言うのは見当たらないようです。
しかし一方でよく探してみるとヴィイの元ネタ的な伝説はありそうな感じだそうで、今回は諸々から引用しながらそんな話をしてみようかと。
今回はスタイルを変えて、基本的に本や論文を一部引っこ抜いてテキトーに要約し、【】で囲って私の無駄話をくわえてみます。
ちなみに複数回の続きものにする予定なので、今回はヴィイ単体に近いもの、のお話。
ストーリーでヴィイにかかわる部分、あるいはヴィイと関連性のありそうな伝承なんかは、次回以降にまわすことにします。

1.ソロデヴィイ・ブニオ、早目、他

伊東一郎「《ヴィイ》――イメージと名称の起源」 (『ヨーロッパ文学研究』第32号 早稲田大学文学部、1984)によれば、スラヴ近辺には、一人で目が開けられない、あるいは目隠しをされているため普段は周りを見ることができない神話的存在が伝わっています。濃い眉毛と目に貼りついたまぶたを持つソロデヴィイ・ブニオ*1、目隠しをされている<早目>*2、巨大な眉毛と長いまつ毛を持つ老人*3などがその例です。彼らの目を開けるには熊手で持ち上げる、というパターンが多いようです。
【この目を開けるため熊手(特に鉄のくまで)で持ち上げるというパターンは後にもいくらか出てきますが、スラヴの方ではよく出てくるモチーフのようですね。ちなみに熊手と言っても、酉の市なんかの熊手とは多分またちょっと違うんじゃないかなぁ、と。私もあんまりイメージ湧きませんが。こんな感じなのかな?→】http://rodnovira.ucoz.ru/Bogi/viy2.jpg 


閉じられている目を開けると、ブニオは町や村を灰に変えて滅ぼし、<早目>は見たもの全てに火をつけてしまうのだとか。ちなみにこれらは夏の稲妻(モルガウカ)の擬人化である、という説もあるようです。
【ちなみにソロデヴィイヴィイは今回の話の主人公であるヴィイとは綴りが違います】
これらの伝承を「ヴィイ」として紹介している本もありますが*4、その記事の原典*5を当たると「ヴィイ」とは一切書かれていないようです。
また、ロシア民話「イワン・ブィコヴィチ」に登場する魔女の年老いた夫は、地下にいて長いまつ毛と濃い眉毛が顔にかぶさっており、十二人の大力無双の勇士が熊手でまつ毛と眉毛を持ち上げないと何も見ることができません。この魔女の夫とヴィイのイメージの類似は早くから指摘されてきたようです。熊手などで人に目を開けさせる、というモチーフは他にもロシア民話「ワシーリイ王子」の<獅子王>や白ロシア民話「プラズ・イリュシク」の皇帝プラジョルなどにも共通するようです。
【特に魔女の夫との関係が取り沙汰されるのは、地下にいるというイメージがよりヴィイと類似しているからでしょうか?】
逆に「イワン・ブィコヴィチ」の方が「ヴィイ」から影響を受けたものである、という仮説もあったようですが、スラヴ全体にモチーフが広がっていることから、この仮説は支持しがたい、というのが筆者の意見。
ちなみに上記のような「ヴィイの方が伝承より先」説が出てきたのは「ヴィイ」執筆以前に公刊されたフォークロア資料にはこうした存在について言及がなかったためだとか。
【「大工と鬼六」という話は北欧の昔話が明治時代に翻案されたものであるにもかかわらず、いつの間にかそれが土地に根付いた昔話のように語られてしまっている、という例もありますので。まぁあんまり関係ないですが。】


そんなわけで、属性と名称がヴィイと合致するものは今のところ伝承からは発見されていない、ただしヴィイの姿を彷彿とさせる悪魔的存在はウクライナを含めほとんど汎スラヴ的に知られておりゴーゴリは恐らく漠然とにせよそれらの知識を持っていただろう、というのが筆者の結論。

ちなみに、名前と属性が近いもので言えば、眼差しで人を殺す力を持つヴィラという女性の妖精が西・南スラヴに伝わってはいるものの、まつげや眉毛やまぶたで目が隠れているということもないようです。またヴィイは男性名詞ですが、男性のヴィラは存在せず、仮にヴィラが男性名詞となってもヴィレニャク、ヴィレニク等となってヴィイという形にはならない、意味としても「ヴィラに愛された人間の男」という意味なんだとか。

2.聖カシヤーン、ブニャク

【そんなわけで長らくこのソロデヴィイ・ブニオ他がヴィイの元ネタであろう、という説が主流だったんじゃないかと思う(というか、単に他にあんまり説が出てるのを見かけない)わけですが、10年ほどしてまた別の方面からの説が登場します。】
栗原成郎『ロシア民俗夜話』(丸善ライブラリー,1996)では、ヴィイに類似した伝承としてロシア正教の聖者であるカシヤーンが挙げられています。
聖人にはいずれも記念日がありますが、聖カシヤーンの記念日は2月29日、つまり4年に1回しか存在しないんだとか。聖カシヤーンはサタンの側についた、また貧者に無慈悲であったとされています。また別の伝承ではカシヤーンは農夫であり、聖者をも騙す詐欺師として語られています。いずれにせよ、ロシアの人々はこの聖者に否定的なイメージを持っているようです。
更に、カシヤーンは「彼に睨まれたものは全て死ぬ」「彼に睨まれた人間には大きな不幸が起こる」邪眼の持ち主だったともされます。ウクライナの伝説で彼はこう言われています。
「カシヤーンは膝に届くほどに長いまつ毛を垂らしていすの上にじっと座っている。その長いまつ毛のために彼はこの世界が見えない。うるう年の二月二十九日の朝に限って彼はまつ毛を上げて世界を見回し、その時彼に睨まれたものは滅びる。」カシヤーンの被害を避けるため、農民達は二月二十九日、特に日の出前は外出を避けたとか。他にも、彼が風を統御して疫病をもたらす、地獄の門番である、悪魔、悪鬼と深い関わりがある、などといった伝承が存在するそうです。ちなみに著者は、聖カシヤーンは冬そのものを象徴していると考えている模様。
【地獄=地下(地獄が地下じゃない可能性もないではないですが)にいて、目が開けられず、目を開けた時には災厄がもたらされる。なるほどヴィイに類似しています。】

また、ウクライナの伝承には「疥癬かきの」ブニャクという話があり、これまたカシヤーン・ヴィイと類似しています。
「ブニャクはまぶた(あるいは眉)が異常に長く、何かを見たいときには二人の人間が大熊手で彼のまぶたを持ち上げねばならなかった。彼の目で見られたものは全て死ぬ。ある日、自分の目を鏡で見たブニャクは恐ろしさの余り地の下へ転げ落ちた。地の下に落ちたブニャクは悪魔とすり替わった。」
【また熊手で持ち上げてもらうパターンです。】
ゴーゴリの「ヴィイ」には(同書ではヴィイが伝承か創作かは言及していませんでしたが)これらの伝承が影響を与えていたんではないかなー、というお話でした。

【「ブニャク」は先述の「ブニオ」さんと親戚でしょうか? ブニャクさんの綴りがわからないので何とも言えません。教えて詳しい方。】

3.で、結局何が言いたい訳?

【つまり、ヴィイという名前も、そのまんまの伝説もなさそうですが、いずれにせよ似たような話のパターンがいくつもあり、ヴィイがそれらのうちどれか、またはいくつもからイメージを借りてきているというのは恐らく確実なんじゃないかと。そのうち一つが聖人だってのは面白いですね。】


【ついでに蛇足。
ブニャクの話から思い出されるのがケルト神話に出てくる邪眼の持ち主、バロール(バラー、バラール)です。彼も邪眼と共に巨大なまぶたを持っており、これを開けるには熊手や滑車が必要でした。この邪眼に睨まれたものは命を落とすと言われていたそうです。そんな彼も最後は目を貫かれて(弓矢、石、鉄の棒などの説がある)殺されてしまいました。ちなみに邪眼は片目だけであり、もう片目については「普通だった」「元々片目だった」「後頭部についていた」と諸説あるようです。
邪眼・邪視についてはあまりに広く、深いので今のところ私の手には負えませんが、たびたび出てくる熊手で目を開ける、というのは、邪眼にある程度共通するモチーフなのでしょうか。】

【次回予告! ヴィイってノームの親玉って言ってるけど実際ロシアにノームとかいるの? 結局まつ毛なの眉毛なの瞼なの? ヴィイってどういう意味なのさ? などの疑問に答えたり答えなかったりするよ!】

*1:アファナーシェフ『スラヴ人の詩的自然観』第1巻(1865) ウクライナのポドリア地方の「ヴィイ」として紹介

*2:W.ラルストン『ロシア民衆の歌謡』(1872) こちらにも類例としてセルビアの「ヴィイ」が登場、ただし注2の本からの引用。地域をセルビアとしているのは誤解に基づく?

*3:同上

*4:注2・3参照

*5:『祖国雑記』1851年7月号の記事「ポドリアで発見されたスヴャトヴィトの偶像」、ポーランドクラクフの新聞『時』の記事を翻訳したもの

線外活動、もしくは線外興

ご無沙汰しております。
ここのところこちらの更新がすっかり滞っておりました。
ネタがないわけじゃないんですが、集めてまとめるだけの時間と能力がなく。

替わりに、と言っては何ですが、麻野嘉史名義で少々オフライン活動をしておりましたので、その宣伝をば。久々の更新が宣伝かよ!と言われると返す言葉が「申し訳ない」一択になってしまうのですが。

1.b1228本に参加

謎の秘密結社b1228の出す同人誌『b1228 vol.1 "Fictional"』に寄稿させて頂きました。
内容は以下のURL参照。
http://d.hatena.ne.jp/b1228/
自分は小説・評論およびインタビューの手伝い、で参加しております。
「Fictional」=現実をフィクション化する力が全体のテーマ。
自分は当然「妖怪について書いてくれ」と言われて妖怪について書きました。
各人がそれぞれ1つのテーマで小説・評論を書く、しかも注釈なし、というやや特異な形式ですが、それだけにそれぞれ個性が出て面白いものとなっております。
インタビューについては、その人の作品を知らない人にも単独で楽しめる内容になっている……んじゃないかと考えるのですが、どうでしょう。
"フィクション"という言葉からからそれぞれが選んだテーマも対象へのアプローチも全く異なるにも関わらず、読み進めて行くうちに個々の作品を超えて響き交わす何かを感じられる、と思います。

2.「異能鬼除録」原案・妖怪蘊蓄担当

しまざきみさえさん(http://misaeland.blog.so-net.ne.jp/)の製作している同人誌「異能鬼除録」(現在2巻刊行、以下続刊!……予定)に、原案兼妖怪蘊蓄として参加しております。
江戸時代一世を風靡した妖怪譚、稲生物怪録――をネタ元にした愉快な4コマ漫画です。コミティアなどで売っているので、良ければ是非買ってください。
稲生物怪録といえば、twitterにてひと夏、稲生物怪録を再現する、という企画のちょっとしたお手伝いもしていました。
稲生平太郎twiloghttp://twilog.org/heitaro_ino)など参照のこと。

3.陋巷に在り本「其の楽しみを改めず」に参加

酒見賢一陋巷に在り」の同人誌、などという守備範囲狭すぎな企画に参加しました。(http://misaeland.blog.so-net.ne.jp/2010-08-10)
陋巷に在り」4コマとか「陋巷に在り」コラムとか、他ではそうそう御目にかかれない酔狂にも程がある布陣の中で、自分は怪力乱神についてうだうだ語っています。
ネタバレアリアリなんで読み終わってない方は読まない方向でお願いします!
しまざきみさえさんのブースにて売ってたり売ってなかったりだけど大体コミティアでは売ってませんので欲しかったら事前に声をかけておくと無難。
ただしネタバレアリアリなんで読み終わってない方は読まない方向でお願いしま以下略!


まぁ、そんな感じオフラインでぼちぼちやったりやらなかったりしております。
次回の更新はいつになるかわかりませんが、ロシア妖怪ヴィイ(と水木しげる)について書く予定。予定は未定。

では、また逢う日まで

帝都東京・魔法陣レクイエム物語

今日は都市伝説から始まる、ランドスケープなお話。

プロローグ

渋谷の西郷像(正しくはその連れている犬)が皇居の鬼門を守り、ハチ公が裏鬼門を守っている、というのはよく言われることのようで、昨今では「信じるか信じないかはあなた次第です」の人にも使われたようですが、上野と渋谷に鎮座する犬たちは単に「狛犬」というよりは、より広く邪気を払うもの(中国では地厭、あるいは犬牲と呼ばれる)として存在していると考えるのが妥当でしょう。(特に貴人が死んだ場合に死後の世界の案内人として犬が選ばれていたことに留意すべきです)

西郷隆盛の秘密

さて、ではなぜ上野にいるのが西郷隆盛でなければならないのか。逆に言えば、上野の犬はなぜ西郷隆盛を連れているのか。それはひとえに、西郷隆盛が「御霊」だったから、と言えるでしょう。 強い恨みを持って死んだ者、特に戦争や政争に敗れて非業の死を遂げた者の霊は強く祟るが、それを拝み祀れば強力な守り神となる、というのが御霊信仰のごく簡単な説明です。明治新政府と戦い、西南戦争に敗れて死んでいった西郷隆盛には御霊の素質があったと言えるでしょう。だからこそ上野に銅像を作って斎き祀り、皇居を守護する守り神としたのです。死後も「星になった」と言われるなど信仰を集めるだけの素地を持っていた西郷は特に御霊としてうってつけだった、と言えるでしょう。 上野は江戸時代から寛永寺が建てられるなど、鬼門の守りとして意識されていた土地でした。"東叡山"=東の比叡山の名を持つ寛永寺は仏教による幕府鎮護を目的として建立されています。 明治時代となって神道に基づく国家が形成されたときに、仏教での守りは相応しくないと考えられ、神道の思想である「御霊信仰」を基盤とした鬼門の守りが必要とされたのでしょう。

渋谷の御霊

さて、では、裏鬼門たる渋谷には犬に並ぶべき御霊はいないのでしょうか。 私の考えでは、ハチ公に並ぶ渋谷のもう一つの待ち合わせ場所である「モヤイ像」がその御霊なのです。 いったいモアイが何の霊なのか、と訝る向きもおられるでしょうが、モヤイというのはあくまでモアイをモデルとして作られたもので、モアイと同一ではありません。モヤイについては、そのものの歴史的バックボーンではなく、外見そのものにより深く着目すべきでしょう。そして、モヤイ像の大きな特徴が、両面に顔があること。

――バス停側とコインロッカー側で、2種類の顔を持つのも特徴となっている。
wikipedia モヤイ像「渋谷駅のモヤイ像」の項より)

これは恐らく、「両面宿儺」の姿であると考えられます。両面宿儺とは、上古の飛騨にいた怪人であり、朝廷に従わず、民から略奪していたため退治されたという伝承があります。おそらくまつろわぬ民と天皇を中心とする都の政治的・軍事的対立を象徴したものでしょう。この両面宿儺、頭の前後に顔が二つ付き、腕と足が四本、という姿をしていたとか。手足はともかくも、前後に顔が付いているという外見はモヤイ像と同一です。
彼はまつろわぬ者として退治されたという伝承がある一方で、飛騨・美濃では信仰の対象ともなっています。ここで注目したいのが飛騨という土地の位置。飛騨は当時の都である奈良、あるいは直後の都京都といった中央からは東北に位置します。これは後述のように、モヤイ=両面宿儺が渋谷の守りに選ばれた大きな理由なのです。

異邦人と犬

西郷隆盛と両面宿儺、どちらも戦争・政争に敗れた御霊であり、一方では信仰を集めていた=神として強い力を持つ存在であったと考えられます。また、それ以外にもこの二人が地方のまつろわぬ異民族であったことが共通点として挙げられます。実際に民族が異なるかどうかはともかく、薩摩隼人や化外の民であった彼らは、天皇中心の国家システムから外れているという意味で、単なる御霊より更に荒ぶる祟り神であると考えられるでしょう。なぜそのような恐ろしい霊を帝都の守りに据えようとしたのか。
実のところ、中央に逆らう異民族を逆に地方からの守り、あるいは聖域の守護に据えるという考えは中華文化圏には多く存在します。中国の歴史書「春秋左氏伝」には、四凶という地方の荒ぶる神を四方に追放し、それらに国に侵入する魑魅を禦がせたという記事があります。これは異民族とその神の力で別の異民族や目に見えぬ悪から中央を守った、という意味に他ならないでしょう。また中国で副葬品に用いられた鎮墓獣と呼ばれる焼き物は、獣の体に胡人の顔がついており、やはりこれも異民族に守りを任せています。前述のように犬は貴人の墓を守るものとされていますが、胡人らの異民族が犬と同じ祓除防御の役割を持つと考えられたことをここで見て取れます。
日本にも同様に異民族を守りに据える信仰は根付いています。それが端的に表れているのは、社寺の狛犬でしょう。狛犬は本来獅子と犬のセットであり、それぞれ唐獅子・狛犬=唐の獅子と高麗の犬と呼ばれます。どちらも異国の者、異民族を守りとする思想に依るのでしょう。
また先に挙げた隼人は宮門の警備を任され、犬吠えといって犬のような声を出して宮門を守護したとされています。異民族による守護は日本でも古くから根付いていたのです。
先ほどから犬(あるいは獣)と異民族が関係する伝承が多く挙がりますが、犬と異民族のセットには敵や邪悪を跳ね返す力、聖域を守る力があると思われていたのかもしれません。
さて、先述した疑問、何故渋谷の守りに他ならぬ両面宿儺を選んだのか。ここまでの回答に加えてもうひとつの理由、その一つはやはり上野の西郷像にあります。西郷隆盛は都の鬼門=北東を守る御霊。そして彼は西南戦争を起こしており、その出身も都のはるか西南です。一方で両面宿儺は裏鬼門=南西を守り、当時の都からは東北である飛騨にいました。
つまり、彼らは自らのいた方向から分断され、全く逆側の守りとされたのです。恐らく再び反逆者として自らの土地の持つ方角から力を得ぬよう、また所縁のない方向の魔と心おきなく戦えるよう、真逆に配置されたのでしょう。この場合の方向は物理的なものではなく象徴的なもの、つまり都との関係性を指すため、当時の都と現在の都の位置が変わったことはさほど大きな問題ではありません。

結界の意味

では。
なぜ両面宿儺=モヤイ像の設置は昭和55年になって行われたのか。
上野の西郷隆盛像が明治31年に造営され、ハチ公像の建立が昭和9年、一度戦争に供出されて再度の建立が昭和23年。西郷像からハチ公までの期間の長さも気になりますが、これは渋谷区が昭和7年に成立、人口が増えるとともに悪い気も溜まりやすく、あるいは流れ込みやすくなったと考えられたからでしょう。
戦争を経てすぐに再建されたハチ公に対し、モヤイの設置はその実に32年後。いったいその間に何があったのか、と考えた時、渋谷という土地およびモヤイの役割と絡めて考えると一つの答えが導き出せます。

ここまで書いてきたモヤイ(および西郷の御霊、そして犬たち)の役割を一言で言うなら、東京を邪気・悪魔から守ること。
モヤイを渋谷に設置した目的はまさにそこにあるのですが、東京を目に見えぬものから守っている呪術的有識者とでもいうべき人々は、一体何を恐れていたのか。
それは、昭和37年にある封印が解けてしまったことです。この封印が解けても恐らく最初のうちは世の中に大きな影響を与えることはなかったため、呪術的有識者も見過ごしていたのでしょう。しかし、それは後に大きな影響を及ぼした、その意味で彼らは遅きに失したと言えます。


勿体ぶるのはやめましょう。
昭和37年に解けたのはある悪魔の封印、それも10万年にわたる強力な封印でした。そしてやっとその脅威に気付いた呪術的有識者たちが両面宿儺を設置した時には既に悪魔は十分な力を蓄えており、設置の2年後の昭和57年、とうとう本格的な活動を始めます。
そう、モヤイが封じようとしていたのは地獄の都ビターバレー地区こと渋谷を出身地とする悪魔、デーモン小暮。現在の称号で言えばデーモン閣下です。帝都東京を守護する力がいかに強力であったにしても、10万年の封印を経て目覚めた閣下には無意味だったと言えるかもしれません。なぜなら両面宿儺の封印から19年後、西暦1999年12月31日に彼の率いる教団"聖飢魔II"は東京どころか地球を征服したと宣言しているのですから。


〜〜〜〜
2010.04.09追記

はい、そんなわけで毎年恒例第二回BANG節ネタでした。
まぁ、ここじゃ大体こういう与太ばっかり書いてるので、いつも通りという説も。

年始から文字化けが心配な中国妖怪・山魈の話

前置き、という名の御託

謹賀新年。
今年もあるのかないのかわからない程度に更新していければ、と思います。
御覧になっている皆様におかれましては、どうかお見限りなきよう。


さて。
年明け早々、中国に古来より伝わる「山魈」(さんしょう)という妖怪の話をしようかと思います。
例によって結論のない徒然・ダラダラトークですがご容赦。

「山魈」とは中国の南部で広く伝承される山中の妖怪です。「山の精」 とされ、山中に現れて人間と様々な交渉を持ち、しばしば独脚を特徴とする、そんな奴。山魈、山繅(さんそう)、山臊(さんそう)、山精、山鬼、あるいは山都、木客など様々な呼び方をされるようですが、一つの特徴でくくり出すとなると難しいので、いくつかの特徴の中から何点かを持っているもの、とした方がわかりやすいと思われます。*1

なぜこの時期山魈かと言うと、『荊楚歳時記』という中国最古の歳時記に
「正月一日、是三元之日也。謂之端月、雞鳴而起、先於庭前爆竹、燃草、以辟山魈悪鬼。」
正月には爆竹を鳴らして「山魈」を避けた、という記事が載っているためです。
正月に追い払うモノの話をわざわざ正月にする、というのも妙ですが、そこはそれ、来なければ追い出すこともままならない、ということで。

それともう一つ。
この山魈、虎と仲良しです。
旅人から贈り物をされた山魈が虎にその旅人を襲わないように命じたり*2 、逆に自分を妖鬼と呼んだ判官を虎に襲わせてたり*3 。それどころか、魔法でハエくらいの大きさの虎を作りだし(小さくして持ってただけかもしれませんが)、巨大化させて百人ばかり喰い殺させるというカプセル怪獣だかスーパー戦隊の敵幹部みたいなこともやっております*4。仲良し通り越して作れちゃうとかすごいですね。

そんなわけで、寅年の正月に相応しい、山魈のお話。縁起がいいやら悪いやら。

本題――山魈とシャーマン、ここもやっぱり御託

山魈はもともと、「越人」と呼ばれる中国南部の少数民族達の伝承だったようです*5。山神であり、一方で「祝」、つまり神を祀るシャーマンの先祖ともされました。シャーマンの先祖としては山魈ではなく「冶鳥」(やちょう)と呼ばれる鳥です*6
冶鳥=山魈と伝承の中ではっきり同定しているわけではないのですが、山魈と共通する特徴が多数であること、伝承地域が越と重なっていることからほぼ確実と思われます。例えば、冶鳥は夜中人の形に化けて蟹を取り、(主に人間の熾した)火で炙って食ったりします。これは山魈にも良く見られる特徴です。なぜか蟹好き。また上記の「虎と仲良し」*7とか、やたら精巧な巣を作る*8 というのも共通の特徴です。
「越人好巫」「楚人好巫」などと呼ばれるように、越や楚といった江南地域の人々はシャーマニックなことに傾倒する民族とみられていたようです。畏怖すべき猛獣である虎を従える鳥、冶鳥(山魈)を祖先とした越のシャーマンたちは、民族の中でも高い権威を保っていたことでしょう。


で。
この山魈さんが一本足である理由というのが、おそらくシャーマンと山魈の関係性に依るのではないか、というのが今回の本題その1。
一本足の理由説明としては、東洋史学者である貝塚茂樹が「夔(キと読み、一本足の神。山魈と同一視されることも多い)は鍛冶の部族の守護神であり、その奴隷は片足が不自由であった(もしくは枷などで不自由にさせられた)ため、その姿から着想された」という説を唱えている*9一方、同じく東洋史学者である桐本東太は一本足が樹木の幹からのアナロジーであるとしています*10。それぞれ論拠はあるのですが、貝塚説は金属民と山魈を結び付ける資料がない、 桐本説は樹木と山魈についての関係性に疑問が残る、という点で問題が残ります。あまり書くと本論から脱輪するため、詳細は省きますが。
ともあれ、そこで一本足にはシャーマンが関わってくるのではないか、というのが私の考えです。
現代の観察事例ですが、華南及び東南アジアの山地焼畑民が神を祀る舞踏の中に、司祭者(≒シャーマンであったと考えられる)が片足で跳び回るものが数多くあるようです*11。越も古来よりそうした儀礼を持っていると考えると、山魈の足の説明がつきます。
大地を片足で踏みしめたり叩いたりするのは、土地の霊を鎮める、あるいは大地を身ごもらせる仕草として豊作を祈るなどの効果が期待されることが多いようですが、そうした本来の効果はさておき、先祖が山神であり、霊と交流するとされているシャーマンが片足で跳んでいる姿を見た者は、たとえば先祖の山神が乗り移った姿をそこに見たのではないでしょうか。*12


と。
そんな感じで越とシャーマンと山魈は古くは3,4世紀ごろから切っても切れない仲だったようなわけですが。
12世紀初頭、北宋が滅びて南宋になったのに合わせ、大量の漢民族が南の方に雪崩れ込んできました。政治的説明は略。
それと同時期、山魈にも大きな変化が起こります。
これまで少数民族の神(漢民族にとっては妖怪)であった山魈が、五通神という名前で漢民族にまで信仰されるようになるのです*13。この変化の裏に先に挙げた越のシャーマンがいたのではないか、というのが今回の本題その2。
正確には、「山魈」は変わらず妖怪として扱われ*14、「五通神」はしばしば一本足の神として江南に登場するものの、山とも虎とも関係なく、女性をナニしたりする好色な神格、また敬わないものには激しい罰を、拝み祀ると富をもたらす神格として立ち現れます。この五通神、山魈とほとんど共通要素がないじゃないか、と思われるかもしれませんが、時の記録類では五通神がすなわち山魈である、と書かれており、少なくとも当時の人は違和感なく山魈=五通神と理解していたようです。
こうした妖しい神は時の政府によってしばしば弾圧されますが、霊威の強い神は民衆によって支持され、大いに流行します。そして妖しい神が庶民の間で流行する背景として、「巫」、つまりシャーマンが大量に出現し、そうした神を広めたことが挙げられています。この「巫」は、山魈の子孫を自称していた越のシャーマンと同じものを指すのではないでしょうか。

漢民族流入に伴い、越族が本来住んでいた山がちな土地も都市化され、越のシャーマンも安穏と暮らしているわけにはいかなくなりました。そこで、漢民族の需要・都市化している現状に合わせて、霊威として金銭的な面や祟りを強調し、山神や虎といった要素を切り捨て、五通神という形で漢民族に信仰するよう働きかけます。漢民族従来の信仰の衰退もあり、霊威溢れる神は熱心に信仰されるようになりました。
……というのが予想しうるストーリー。
そういう背景があったため、山魈などという少数民族の神格(漢民族にとっては妖怪)が元となった神が広く信仰されたのでしょう。共通点のさほど多くない“山の妖怪:山魈”と“霊威の強い流行神:五通神”が同類と自然に理解されたのも、その伝承を中心となって支えた人間が同じ越のシャーマンであったためと考えられます。
ちなみに、現代においてこれらは再び習合し、民話の中で「山魈」と「五通」が相互に置換可能なものとして記録されています。これも山魈=五通神の傍証と言えるのではないでしょうか。

あ。
またも長くなって結局何が言いたいかわからなくなりましたが。
1:越のシャーマンが山魈伝承の媒介者であり、山魈が一本足なのはその影響と思われる
2:時代が下って山魈が変質して五通神を生み出すが、その背景には越のシャーマンが関わり、漢民族という新たな信仰の担い手に合わせて神の性格を変化させたと思われる

と、要はそういういうことです。
時代に伴った民族の動き、あるいは信仰の媒介者と担い手によって妖怪がダイナミックに変化していくんだ、という一例として挙げてみたのですが、いかがでしたでしょうか?
いやぁ、妖怪って本当にいいものですね。それでは、さよなら、さよなら、さよなら。

おまけ

ついでに、日本の妖怪との関係についても一言。
一本足で山の神・あるいは妖怪と言えば、日本にも一本だたら、一つ目小僧、山爺といったものが伝わっています。この辺りについては柳田國男「一目小僧その他」参照のこと。
一本足、山の神/妖怪以外にも、特定の時期に山から地上へ降りてくるという点、山の神が田の神になるという日本の信仰に対し、山魈が耕作を手伝った話があることなど、類似点は多数あり、おそらく山魈の伝承が日本のそれらに大きな影響を与えたと思われます。
ただ一方で、中国の伝承を単純に移植したわけでもないようです。日本の一本足どもは多く一つ目の特徴も兼ねているのですが、山魈の方はあまりそんなこともなく。
そのため、柳田國男の「一つ目一本足の山の神/妖怪は、神に捧げる生贄の人間の片目片足を損傷した姿から来たのだ」説や、谷川健一の「一つ目一本足の山の神/妖怪は、山中在住の製鉄民が長年炉の中見て片目がやられ、長年蹈鞴を踏んで片足がやられた姿から来たのだ」説を無批判に中国の山魈に敷衍するわけにはいかないようです。ちなみに、片目片足が金属民と関係ある、というのは柳田も指摘するところではあるのですが、物理的要因ではなく、信仰に帰しています。そうした金属民説に関しては、山魈と金属を結び付ける伝承が見当たらないことも傍証として挙げられるでしょう。

*1:そんな曖昧な、と思われるかもしれませんが、河童の仲間なんかも同じようなくくり方で理解をすることが多いです。皿があってもなくても相撲とってもとらなくても河童。

*2:『太平広記』巻第四百二十八『広異記』「斑子」

*3:『太平広記』巻第四百二十八『広異記』「劉薦」

*4:『太平広記』巻第三百六十一『会昌解頤録』「元自虚」

*5:ちなみに越という単一の民族と言うよりも、越の国近辺に在住していた少数民族の総称、と考えた方がいいでしょう。今後はとりあえず越族とでも表記してみます

*6:『捜神記』巻十二「冶鳥」

*7:前掲「冶鳥」に、冶鳥が住む木を虎が一晩中見張り、人間が立ち去らないと傷害を受ける、という条あり

*8:前掲「冶鳥」だけでなく、『太平広記』巻第四百八十二『洽聞記』「木客」や『太平広記』巻第三百二十四『南康記』「山都」などに、それぞれ作りは違えど精巧な巣の描写が。山魈の古称である山繅・山臊(どちらもサンソウ)のソウは発音から来る当て字で、本来は巣を表していたのではないかと思われる。

*9:貝塚茂樹「神々の誕生」(『貝塚茂樹著作集 第五巻』中央公論社,1976)

*10:桐本東太「山中の独脚鬼に関する一考察――日中の比較」(『中国古代の民俗と文化』,2004)

*11:越国は華南というよりも華東ですが、山魈の伝承分布は中国南部の広域にわたっていること、越族それ自体は東南アジアであるベトナムまで移動した、とされることから、越と言う国のくくりよりも、越近辺に在住していた少数民族というくくりで考えるべきでしょう。

*12:社会人類学者の竹村卓二や写真家・研究家である萩原秀三郎も山魈や夔と片足跳びの関係について考察していますが、一本足の神の姿を模して片足跳びの儀式が発生した、と、ちょうど逆の見解を示しています。

*13:この辺りは南宋に書かれた『夷堅志』参照のこと。「江南木客」「孔勞蟲」など。

*14:記録類はほとんどが漢民族の手になるものであり、それ以前も大体の記録では神と言うより妖怪として扱われています

第二回電奇梵唄会に参加したという話をまとめないのとほぼ同じ

土曜深夜から新宿地下でwebアニメ的な何かを語るイベントに出てきました。

護法少女ソワカちゃん第二回電奇梵唄会
「如是我聞 核的窮理 はくちょう座X-1」
http://bombaye2.s-dog.net/

【会場】新宿ロフトプラスワン
【出演】kihirohito、伊藤剛 他
【開催日】2009.6.13(土)
【開場時間】24:00
【開演時間】24:30

護法少女ソワカちゃん」を知らない方は
http://www.nicovideo.jp/mylist/3633617#at_a
を上から順に見てみるといいんじゃないかしら。

各所の元ネタを知りたくなったら
http://sowaka.s-dog.net/


ロフトプラスワンでオールナイトイベントと言えばアレですよ奥さん、いまは亡き妖・怪談義ですよ。*1まさか妖怪ネタを聞いてニヤニヤしていた場所で、自分が壇上に上がることになるとは。しかも妖怪以外で。

そんな感慨を胸に抱きつつ、出演してきました。ここまでのあらすじやイベント全体について語り始めると際限がないので、ひとまずは当日の感想など。*2
詳しい内容は上記公式サイトのプログラム概要に譲りますが、宗教やらキャラ/キャラクター論やら80年代風味の趣味やらで読み解こうぜ!という素敵かつ無謀な企画。
私の仕事はトークの進行とタイムキーパーでした。溢れんばかりの知と愛でソワカちゃんについて語り続ける面々を押し留め、話題を先に流すお仕事。

メイン登壇者は
さくしゃさんことkihirohitoさん
テヅカ・イズ・デッド伊藤剛さん(id:goito-mineral)
必殺まとめ人ことsalty dogさん
monadoの方から来た奴monadoさん(id:leibniz)
宗教社会心理伊達男trickenさん(id:gginc)

ゲスト登壇者は
謎のアレンジャー礒村英司さん
サブカルの凄い人宇田川岳夫さん


……この濃ゆい面子相手にいったい何をどうしろと!?
とか言いつつ「ライトなファンだし」「小難しい話は小難しい人に任せよう」と開き直って好き勝手やってきました。
一番多く言ったセリフが「時間も押してますので」という血も涙もないぶった切りっぷりでしたが、楽しかったです。*3登壇者に「残り30秒でよろしく」「25秒でまとめて」と言ったら本当にやってくれたので感動しました。
壇上では自分が出来ることを出来る限りやったつもりです。gdgd進行とか、仕切りが魅力を削いでいたと思われた方がおられたら、手抜きとかではなく偏に私の能力不足です。申し訳ありません。

ちなみに壇上ではコスプレ強制だったので、私は「霊界ラヂオショー」の最後に出てくる狐面の男のコス。
D
進行役は登壇者と観客の橋渡しであるがゆえ、狐の仮面をかぶって境界的存在となったのだ、という適当な嘘をついてみたりする。ディスコミでもつげ義春でも鳥山明でも。ちょっと丸尾末広風味と言えない事もないですね。しかし、kihirohito作の動画中でも上位に入る再生数の低さで誰がわかるんだ、という感じですが、まぁ色々思い入れがあるので良いことにする。わかってくれる人もいたようですし。

で、今回思ったことのまとめ。
誤解を承知で極論すれば、今回のトークには緻密な論理の着地点など不要だったのではないかと。 構成上濃ゆいテーマを6つも詰め込んでいるのに、それが動画上映込み3時間で終わるわけがない、というのは当初から言われていました。
学術発表でも何でもないトークショーなのだから、今回はお客さんに楽しんでいただくことが一番。その上で、今回の眼目は「「語って楽しい」ソワカちゃんの魅力を知っていただけたら」*4ということなので、語り足りなそう、あるいは聞き足りないという感想はある意味ひそかに期待していた通りでした。それはつまり、聞いて頂いた皆様にソワカちゃんを小難しく語る快楽や、まだいくらでも語る余地があることを(再)認識してもらえたことを指していると考えるからです。
この第二回電奇梵唄会の続きを(反論も含めて)各人の心の中や身内やネットで開催してくれれば、トーク登壇者の一人としては嬉しい限りです。


「徹夜でソワカちゃんを小難しく語る」という狭っ苦しい門を入らねばならないにもかかわらず、お客さん(中継見て下さった方々も含め)が皆暖かく見守って頂けたことは、何よりありがたかったです。イベントの頭では「物好きな」なんて言い方をしましたが、本当に感謝しています。

それと、内向きな感想になるのは本意ではないので一言だけに留めますが、運営の皆様ありがとう。

梵唄会に関わった皆様一人一人が楽しんで頂けたなら、そしてその楽しみに自分が少しでも寄与していたなら、望外の喜びです。


おまけ
第二回電奇梵唄会は信者からソワカちゃんへの「徹夜で書いたラブレター」だったんじゃなかろうか、と今になって思う。愛がほとばしってて恥ずかしい、いい思い出ですね。そんなこと言ってるこの日記も梵唄会への「徹夜で書いたラブレター」かもしれない。

*1:もしかしたらイベント続いてるのかもですが。

*2:経緯等については要望があればまたいつか。

*3:伊藤先生に「彼はラカン的だね」と言われました。暴力的にセッション(トーク)を切断するという意味の由。

*4:イベント発起人挨拶より

室井恭蘭「妖魅本草録」を読んだらしい、と言う話

室井恭蘭「妖魅本草録」(土耳玄書院、昭和31年)

先日、あの室井恭蘭の本を読むことが出来たので喜びの余り更新。
某図書館の書庫にある、郷土史家の旧蔵書コレクションの中にさりげなくひっそりと入っていました。
見つけた時は思わず変な声が出ました。別の調べ物で地下書庫に潜っていたのですが、本題をそっちのけにして読み耽ってしまいました。昼過ぎから閉館時間までメモを取りまくったものの、当然ながらすべてを記録することはできなかったのが残念、しかも出張先での休日の出来事だったので借りることも翌日再訪もできなかったのが更に残念でした。

……「あの」といっても、室井恭蘭は一部の好事家を除いてあまり有名でないと思われます(何せ広辞苑はおろか、天下のwikipediaにすら項目がないほどですし)。

室井恭蘭は、伝説の収集で知られた江戸後期の国学者であり、いくつもの著書を残しています。特に自らの出身地であった信濃地方の伝説・伝承に関しては、当時一、ニを争うほどの知識を誇っていたようです。*1
しかし、恭蘭はもともと精神的に危うい所があったらしく、伝説に傾倒するあまり精神の平衡を失い狂死したと伝えられています。
こうした最期を遂げたためか、はたまた特に晩年の著作については内容が余りに狂気めいているためか、恭蘭の著書についても長い間発禁、あるいは自主規制という扱いを受けてきました。
そのため、恭蘭は普通の人には忘れられた学者であり、一方長野の伝承などに興味のある好事家にとっては、彼の本は名のみ知られているものの内容については知るもののほとんどいない、それ自体が伝説のような本だったようです。

そんな恭蘭の著書のうち、比較的見つけやすいのが、今回取り上げた「妖魅本草録」。
原本は文政3(1820)年出版ですが、土耳玄書院から昭和31年に復刊されています。学者でない好事家をも対象とした一般向けを意識しての復刻だったため、かなり読みやすく改められているようです。しかし少部数しか刷られていないこと、現在は出版社が存在せず、この本自体も国会図書館にも所蔵されていないことなどから、読むことはかなり困難。原本はそれに輪をかけて入手困難であることを考えると、古書店などで見たら迷わず購入するのがオススメです。このレベルで「比較的手に入りやすい」となってしまうのが恭蘭の恐ろしいところです。恭蘭晩年の著作である「信濃秘志」などは、復刻は当然存在せず、原本も2冊ほどしか現存しないとのこと。

……と、この辺りまでは8割がた「序」と「解説」からの情報でした。

この本は一言で言えば「絵入りの怪しい博物事典」。
「和漢三才図会」や「本草綱目」のような本草書の体裁をとっており、鳥獣部・虫魚部・草木部・金石部の四部構成で、各項目の中で80、計320の事物を紹介しています。文体は漢字カナ混じりの平易かつ簡潔なもので*2、各項目には素朴な線画が添えられています。
この本で特徴的なのはそれら全てがあまり知られていないような事物であるか、あるいは有名な生き物などであっても奇妙な説明が付けられていること。まさに「妖魅本草録」というタイトルに相応しいと言えます。ちなみに「妖魅本草録」というタイトルは、交流があった平田篤胤の「古今妖魅考」を意識したようです。

こうした事物や解説は恭蘭個人の創作というわけでもなく、珍しい事物や俗信を図鑑的に拾い上げたものなのではないかと思われます。例えば鳥獣部の"鶉土竜"や虫魚部の"腐艸螢"などは七十二候の俗信*3が実在することの証明として紹介されていますし、金石部の"子泣石"はおそらく小夜の中山の夜泣き石*4と同じものだと思われます。
興味深いのは草木部の"薬缶蔓"。ヤカンズルあるいはヤカンヅルというのは木の上から薬缶が下がってくるという妖怪*5ですが、恭蘭は人が通ると下がってくる蔓性の植物として記録しています。名前からの連想か、はたまたそう言う伝承があったのか、気になるところです。

このように該当する伝説や俗信がわかりやすいものもある一方で、"掴踵石"、"月羽虫"、"立歩魚"、"弾鶏"、"人似草"など他に類例を思いつかないような項目も多見されます。恭蘭がこれらの知識をどこで得たのか、またこれらがどこに伝承されているものなのか、ほとんど書き記されていないのが惜しまれますが、貴重な資料であることには変わりないと思われます。*6

と、手に入れた本の感想をとりとめなく勢いに任せて書いてきましたが、多少まとめめいたことを書いておこうかなと思って書いてみることにします。

「妖魅本草録」は本草学(博物学)の<全てのものを収集・命名・解説・分類・陳列する>といった目的を、怪しいものだけを対象に行ったものだと言えるでしょう。*7本草書のうち対象が細分化されたものと見ることが出来る一方で、怪しいものの絵と説明をひとつひとつ羅列していくという様式は、妖怪という視点から考えるならば、鳥山石燕画図百鬼夜行」(1776)*8や桃山人「絵本百物語」(1841)*9の妖怪図鑑の流れの近くに位置づけることが出来るのではないか、と考えています。絵が中心の図鑑と絵が添えものの絵入り事典を単純に比べるわけにはいきませんが、絵を見せるのが主目的であっただろう石燕からそれぞれの妖怪絵に長い物語が付属した桃山人の間に、「妖魅本草録」や同様の書物が影響を与えていると仮定するのはあながち無理な話とも言えないのではないでしょうか。

こうした他との比較もさることながら、「妖魅本草録」を特徴づけているのは先に挙げたように類例のない珍しい事物の列挙、そしてもう一つは、書き手の本気らしさ。「実見セリ」という言葉が何度も使われていること、具体的な事実としての記述等、単なる伝承ではなくあくまで実在する事物として書かれているため、存在しないことが分かっていても読みながらリアルさを感じていました。先述の「画図百鬼夜行」や「絵本百物語」があくまで架空であることを共有前提にしていたのとは対照的に、「妖魅本草録」は各項目が実在する事物であることを強調してやみません。これは本草書という体裁であること、著者が学者であること、何よりも著者個人の資質によるものなのではないかと。

わかりづらいのでもっとまとめめいたことを書きますと。

「妖魅本草録」面白かったです。
でも皆様が面白いかどうかは保証の限りではありません。
でも面白いよ。

という話。これを言うために長く書きすぎですね。

【余談】
ちなみにあの漫画家諸星大二郎の作品でもこの本が元と思しきネタがいくつかあり、諸星先生のアンテナの高さには感心させられることしきりです。


〜〜〜追記〜〜〜

昨年、今度は入り浸ってメモ魔としてメモりまくろうと思い、某地方の図書館に電話したのですが電話が通じず。
調べてみたところ、台風で図書館が土石流に埋もれて半壊状態になってしまったのだとか。
資料はほとんどがなくなるかダメになってしまったという話。
図書館の作りからして、多分書庫もダメだったのでしょう……。
しかし、機会があれば確認に行きたいとは思います。

*1:ちなみに『信濃奇勝録』の井出道貞が並び称されていたとのこと。

*2:復刻ではそうなっていた、と言うだけで、原本が仮名交じりか漢文かは残念ながらわかりませんが。

*3:この辺り参照。清明次候の「田鼠化為〓(如の下に鳥)」と芒種次候あるいは大暑初候の「腐草為蛍」ですね

*4:この辺り参照。

*5:鬼太郎ではなぜか何でも吸いこむ妖怪として描かれていたので、そっちで覚えてらっしゃる方も多そうです。

*6:そのうちこれらの項目のうち特に面白そうなものでblog記事を書きたいところですが、関連するものを探すのが大変そうな気がします。

*7:この辺り、以前この記事の註8辺りで少しだけ書いた「妖怪図鑑的なものへの欲望」=わけのわからないものを収集・命名・分類・一覧化etcしたいという欲望と絡めて語りたいのですが、まだうまくまとまっていないので割愛。

*8:鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集 (角川文庫ソフィア)

*9:桃山人夜話―絵本百物語 (角川ソフィア文庫)