『もっけ』がいかに妖怪好きの心をくすぐったか、と言うお話。
妖怪漫画『もっけ』の話。
この漫画に関してはナイトメア叢書「妖怪は繁殖する」(青弓社,2006)*1にて国文学な学者の方が論じておられるし、
伊藤剛*2なども各所で触れているのですが、
そんなこととはまったく関係なく思いの丈など述べてみる次第。
半分以上妄想なので誤読上等ということでひとつ。
知ってる人は知ってるだろうし知らない人はこんな記事読まないだろうけど、一応解説しておきますと。
この漫画、ざっくり言ってしまえば
怪しいモノが見える姉と怪しいモノに憑かれやすい妹が
怪しいモノと関わっていく一話完結型のお話。
怪しいモノは当面妖怪と言い換えても問題ないはず。
妖怪と関わる一話完結のお話と言えば、それこそ鬼太郎から百鬼夜行抄まで枚挙にいとまがないわけですが、
『もっけ』の凄いところは、そのバランス感覚だと思うわけです。
「妖怪」という話から先に始めますと、
まずこの漫画、毎回タイトルになる妖怪(たまに妖怪じゃない)があり、その妖怪の属性がストーリーに絡んでくる、という作りになっております。その妖怪について語られる、あるいはその妖怪の表す特徴が、通り一遍のところから持ってくるのではなく、妖怪の周辺も含めた細かいところで様々なネタを持って来ているのがわかってニヤリとさせられる。
主に主人公姉妹の祖父が披露する蘊蓄が妖怪ネタ満載ですが、それ以外の何気ないシーンなどにもいちいち妖怪好き心をくすぐる演出があり。
たとえば「#28 ヤマウバ」でヤマウバがいなくなった直後のシーン、ドングリと落ち葉が散らばっている*3のは、能「山姥」で山姥の正体として登場する「熟して谷に落ちた団栗に落ち葉がつき、団栗が目となって山姥となる」という説が元ネタであったりします。
また「#12 ヒョウタンナマズ」では鯰絵、大津絵あたりが小道具として使われつつ、実際描かれている妖怪はヒョウタンナマズという「伝承が存在しない」妖怪、ただしおそらく本当の妖怪は(おそらくヌラリヒョンであろう)伊福部老人。*4
などなど。
とはいえ、取り上げられる妖怪のネタは濃ゆくてもそれに引っ張られて話が疎かになっている感じがしない。とまぁこれはファンの贔屓目なのかも知れませんが。おそらく妖怪のために話があるわけではなく、妖怪はあくまでも話のための装置なんじゃないかと。まずストーリーが先にありきで後から妖怪を選んでいるのだろう、などと勝手に考えているのですが、京極夏彦がご自分の作品について同じようなことを言っていがしますがうろ覚え。
簡単なように見えて妖怪への愛が走りすぎるとその辺のバランスが難しくなったりするわけです。
また、ストーリーの舞台設定が「日本のどこか」のようなわけですが、あえて地方を設定していないようです。タイトルもカタカナで妖怪の名前なのですが、その名称もおそらく地方性を排するようになるべく普遍的な名前を持って来ているようで。場合によっては「#2 オクリモノ」など妖怪の名称としては存在しないものを持ってくることもあるようです。
同じ行動をする妖怪でも場所によって名前が違う、あるいは同じ名前の妖怪でも場所によって行動が違う、というのは大いによくある話なわけで。舞台及びタイトルで地域を限定しないことで、そのような様々な差異をうまく統合して素材として使っているわけです。
そしてもう一つ、ストーリーの作りの話。
作中で主人公たちはそれぞれ妖怪と交流できる能力を持っている、とされていますが、本当に妖怪がいて彼女らと関わっているのか、それとも主人公たちの妄想なのか、どちらとも読めるようになっています。「妖怪」という説明を入れないでも話の中の世界観が大きな齟齬なく成立するように作ってあるのです。
たとえば、
妖怪が見える能力も憑かれる能力も妄想。それで知ることが出来ないはずのことを知るのは「無意識で感じた・知ったもの、あるいは表面的には覚えていないことを妄想と言う形で出力している」さもなくば偶然。出来ないはずのことができるのは自己暗示による潜在能力の発揮。
と見ることもできます。
妖怪側からの視点がほとんどないことも、そうした読み方を補強しているとも言えます。
ただし、基本的に怪しいモノと関わる能力を持っている人間を主人公に話を進めているため、「意識してそう読めばそうとも読解できる」というレベルには抑えられています。とはいえ、主人公たちの妄想、として読み解く余地をあえて残しておくことで、単なる妖怪物にはない雰囲気を生み出しているのではないかと。
大抵怪しいものと関わる漫画といえば、怪しいモノと関わる人だけがより真実の世界に近い姿を見ている、見えない人は世界の限られた姿しか見えていない、というストーリーになることが多いわけです。
しかし前述のように『もっけ』では見える人の見る世界が必ずしも正しい、という構造をしてはいません。見える人それぞれでモノの見え方が食い違っているというエピソード(#36 ヌッペッポウ)などは、妖怪は受け手にその外見を依存する=妖怪やそれを含む世界観に「唯一の正しい姿」がないことを意味しているようです。
こうした姿勢は1話目の「#1 ウバリオン」から表れています。
この話はその場に見える人間である姉がいなかったならば、
「調子悪くなったけど、助けられて回復した」
というだけの話なわけで、何一つ不思議なことが起こっていない、とも解釈できる話です。見えていることが逆に物事の解決から遠のかせる、という話が1話目から登場するというのはこうした漫画としては非常に珍しい気がします。
見えることで逆に「考えの幅狭めちゃってた」というセリフ*5はある意味で象徴的なのではないかと。
また、主人公たちも自らの世界観に自覚的です。
たとえば「#23 ジャタイ」の最後での姉妹の
「私達も何にも思わなければ 見る事も憑かれる事も無いのかもね」
「お姉ちゃん そりゃ難しいよ」
「うん」
という会話*6などにそれが強く表れているわけです。
周囲の大人が彼女ら主人公の能力を「病気」と扱うシーンも多く見られます。
いわゆる常識的な世界観で言えばそれも間違いではありませんし、妖怪が当たり前のように登場する作品世界の中ですら完全に間違いとは言えないようです。
そうしたことを踏まえると、伊藤剛が『もっけ』の物の怪を「身体や心の変調」あるいは「心身症」のメタファーと読んでいる*7のも作者の意図したところを鋭く射ている気がします。
で、
ここまで長々とわかったようなわからないような話を書いてきましたが。
表題の「いかに妖怪好きの心をくすぐったか」ということについて。
1つは先述のようにちりばめられた濃ゆい小ネタのため。
とはいえ妖怪に引っ張られてストーリーが破綻しないそのバランス。
そしてもう1つは、妖怪がいるともいないとも言える世界観そのもの。
どちらともとれるような描写も、やはりバランス感覚のなせる技だと思うわけです。
現在「いない」のが常識とされている妖怪を、漫画の中で「いる」とするのはある意味簡単な話ですが、妖怪はもともと「実際はいないがいるとされた」とか、「いないけど信じる人にとっては存在する」など、「いる」と「いない」の間に存在するものであり、単純に「いる」としてしまっては妖怪の片方の面しか楽しめない気がします。
妖怪が「どのように存在しているか」ということは、取りも直さずそれを感じる人間が(共同体のバックボーンを踏まえつつ)「どのように理解・把握したか」ということなわけで、「バックボーンとなる過去の妖怪知識」が踏まえられた「主観でのみとらえられる妖怪」が登場する『もっけ』はある意味でもっとも妖怪らしい妖怪漫画なのかなぁ、などと思うわけです。
主人公姉妹を教え導く立場の祖父についてとか、ビジュアルのないものが多いはずの妖怪をビジュアル化するにあたって(水木の影響なども含めて)どうするのか、とか、雑多に語りたいことはまだまだあるのですが、それはまたいずれ、ということで。
長く書きすぎたので意味が分からなくなっている気配がする恐怖。
わかんなかったらごめんなさい。
2009/1/26 文法的に意味がおかしい所などをちょいちょい修正。勢いでupするのは良くないね。
- 作者: 熊倉隆敏
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