祭竒洞

姑らく妄りに之を志す。

世はなべて天狗の仕業

といってもアレでアレなアレではなく。妖怪の方。
至極大雑把に言えば「山の中で何か起こったらそれは天狗の仕業」なわけです、というお話をしようかと思います。

もちろんそれで天狗さんの全てが説明できるはずもなく、
「仏教の敵」とか「いやいや仏教の味方」*1とか、「空を飛ぶぜ」とか「実はルシファーですが?」とか「正体は役小角だし」*2とか、まぁ天狗の要素は色々あるわけですが、最大公約数でざっくりまとめたと思っていただきたく。詳しく知りたい方は知切光歳*3でも読むといいんじゃないか、という事で。

ではなぜ山の中での怪現象が天狗の仕業なのか。
言い方を変えれば誰が何故そのようにジャッジしたのか。

民衆の集合知だか集合的無意識だかが全国津々浦々の山々に天狗と呼ばれる妖怪を生み出したのだ、ということになると美しいのですが、天狗なんて明らかに漢語由来の小難しげな、なおかつ字面と音韻だけでは「山」を微塵も連想させない単語が日本各地の山村で同時多発するわけもなく。
まず各共同体に天狗という言葉、天狗の性質を定着させた人間がおり、それが次第にコミュニティ内で共有される知識となったのではないか、と考える方が妥当なのではないかと。

ここで考えてみたいのが、以前の記事*4で少し触れた「村の古老システム」。

※村の古老システムとは?
怪奇現象に対し、ある種の権威者が現象の主体を判断・特定することで、
その主体が規定される、というシステム。
命名:俺

ここまでの流れに即して譬えるならば、村で一番知識を持っている(と信じられている)人間が山での怪奇現象に対して「それは天狗の仕業じゃ!」と言えば、村の人間は“テング”なる存在がその現象を起こしたと「理解」する。

というような共同体内のシステムを指しています。

天狗に限らず妖怪一般の成立に関しては、こうしたシステムの存在が大きいんじゃないかと思ったりしています。
ある妖怪が成立するためには、怪奇現象の発生だけでなく、それを誰かが解釈して「妖怪の仕業」と判断すること、そしてその解釈が受け入れられることが必要と言えるでしょう。
解釈をするためには知識の蓄積が、それが受け入れられるためには共同体内部での信用が不可欠。そうした前提を備えた人間が、たとえば村であれば一番の年長者であるというパターンというのはいかにもありそうな話ということで、村の古老システムと命名してみたわけです。

天狗に話を戻すならば、「天狗」についての知識は自然に降って来るものではない訳で、外部の人間の話、もしくは書物などのメディアによってもたらされるという場合がほとんどであると思われます。
そうした時に、本を購入して内容を理解するだけの、あるいは外部からの人間を受け入れるだけの金銭的余裕、インテリジェンス、あるいは権威・権力のある人間が、システムで言う「村の古老」として(実年齢等とは必ずしも関係なく)機能し易いということになります。

上記のような条件を持つ人間が、外部からの最新知識(それが旅の僧侶*5の話であれ、文化的中心で出版された本であれ)で怪現象に対して判断を行えば、それが共同体で受容される可能性は非常に高いでしょう。村の古老による判断が繰り返されればその判断は定着し、以降は同様の現象に対して前例と同じ判断が共同体から下されることとなります。
具体的には山で何かが起こるたびに古老が「天狗の仕業じゃ」と言い続ければ、山で何か起これば天狗の仕業、という通念が共同体内で成立し、山での怪奇現象に対して古老を通さずとも天狗の仕業と判断できるようになります。

と、このように「天狗」などという若干小難しげな妖怪なんかが村の古老システムによって地方の共同体に定着していったのではないだろうか、というお話なのでした。

ここまで天狗をダシにして「村の古老システム」について語ってきましたが、このシステムは必ずしも先に挙げたように中心→周縁に限った話ではなく、もう少し広い事例を指せるのではないかと思います。
たとえば、ずいぶん以前の記事*6に書いた、中国の天人相関説及びそれを日本に持ってきた時の解釈機構。

時の政治が悪いと天がそれを感じて警告として災害を起こしたり謎の動物を出現させたりする、という考え方があり、何か起こった時に為政者の何が悪かったかを占い等で解釈する機構が律令国家には配備されていた。

というのがそのごく大雑把な内容ですが、占い等の専門技術を持った人間(=ある種の権威者)が、災害、あるいは怪異の原因を判断することで国家の怪異に対する解釈が決定される、という意味ではこれも一種の村の古老システムと呼んでいいのではないかと。

また、みたび天狗の話に戻るならば、『日本書紀』の僧旻*7が音を立てて流れる星を見て「あれは流星じゃない、天狗じゃ」的なことを言ったという記述が日本における「天狗」という記述の最古だと言われています。のちの天狗とはあまり関係なさそうな話ではありますが。
もともと「天狗」というのは中国の妖怪的なものである、というのは一部には有名な話です。『史記』や『漢書』に見られる、でかい音を立てて光りながら空をかける巨大ワンコ。

中国帰りのインテリゲンチアであり、仏教だけでなく先に書いたような中国思想にも詳しい僧旻が音を立てて流れる星を天狗と解釈・判断したことで、天狗という言葉が日本に輸入され、(本来指したものとは違う形で)定着し始める。
日本の天狗は始まりからして村の古老システムに則ったものであったと言えるのではないか、と思います。


……と、きれいに締めようと思ったのですが、なんというか半端に食い足りない感のある文章になってしまいました。結局天狗さんは何者なのか、ということはなるべく触れずにシステムの方を考えて来たのですが、どうもその辺りが原因の模様。それなら何も天狗である必然性がないじゃん、という。システムについてもまだまだ語る余地はありそうですし。

次回以降いつか

  • で、「村の古老システム」って結局何なのさ
  • 各地域での「村の古老システム」は、国家的「村の古老システム」の縮小再生産なのか?
  • 現代に「村の古老システム」は生きているか?

なんてことを考えてみたいとは思っていますが、予定は未定。

*1:わかる人だけにわかる話。ソワカちゃん的に言えばこっちの方がしっくりきますね。鼻の高い天狗は仏教守護の側面が大きいようですし。某マロとか某天狗さんとか。

*2:パパの人のブログより。この指摘は結構面白かった。天狗=星と修験道の宿曜占星術とか妖霊星とか絡めるともっと面白そうだけど妄想度もUP!真面目に考えるなら『日本書紀』の成立年代と小角伝説化がどの程度オーバーラップするか、といったところか。

*3:天狗の研究』という本を書いた天狗研究家

*4:この記事の2.妖怪の発生とキャラ化あたり。

*5:天狗の伝播にはこうした人々、特に山岳修行者が深く関わっているようですが、今回はそれが共同体内部でどう受け入れられたかという話なので割愛

*6:この記事の半分より下あたり。

*7:そうみん。本当は日文という名前らしいですが。僧旻チャンプルーとか、「ねぇ僧旻、こっち向いて」とか書かなかったのは良心だと思っていただきたい