祭竒洞

姑らく妄りに之を志す。

年始から文字化けが心配な中国妖怪・山魈の話

前置き、という名の御託

謹賀新年。
今年もあるのかないのかわからない程度に更新していければ、と思います。
御覧になっている皆様におかれましては、どうかお見限りなきよう。


さて。
年明け早々、中国に古来より伝わる「山魈」(さんしょう)という妖怪の話をしようかと思います。
例によって結論のない徒然・ダラダラトークですがご容赦。

「山魈」とは中国の南部で広く伝承される山中の妖怪です。「山の精」 とされ、山中に現れて人間と様々な交渉を持ち、しばしば独脚を特徴とする、そんな奴。山魈、山繅(さんそう)、山臊(さんそう)、山精、山鬼、あるいは山都、木客など様々な呼び方をされるようですが、一つの特徴でくくり出すとなると難しいので、いくつかの特徴の中から何点かを持っているもの、とした方がわかりやすいと思われます。*1

なぜこの時期山魈かと言うと、『荊楚歳時記』という中国最古の歳時記に
「正月一日、是三元之日也。謂之端月、雞鳴而起、先於庭前爆竹、燃草、以辟山魈悪鬼。」
正月には爆竹を鳴らして「山魈」を避けた、という記事が載っているためです。
正月に追い払うモノの話をわざわざ正月にする、というのも妙ですが、そこはそれ、来なければ追い出すこともままならない、ということで。

それともう一つ。
この山魈、虎と仲良しです。
旅人から贈り物をされた山魈が虎にその旅人を襲わないように命じたり*2 、逆に自分を妖鬼と呼んだ判官を虎に襲わせてたり*3 。それどころか、魔法でハエくらいの大きさの虎を作りだし(小さくして持ってただけかもしれませんが)、巨大化させて百人ばかり喰い殺させるというカプセル怪獣だかスーパー戦隊の敵幹部みたいなこともやっております*4。仲良し通り越して作れちゃうとかすごいですね。

そんなわけで、寅年の正月に相応しい、山魈のお話。縁起がいいやら悪いやら。

本題――山魈とシャーマン、ここもやっぱり御託

山魈はもともと、「越人」と呼ばれる中国南部の少数民族達の伝承だったようです*5。山神であり、一方で「祝」、つまり神を祀るシャーマンの先祖ともされました。シャーマンの先祖としては山魈ではなく「冶鳥」(やちょう)と呼ばれる鳥です*6
冶鳥=山魈と伝承の中ではっきり同定しているわけではないのですが、山魈と共通する特徴が多数であること、伝承地域が越と重なっていることからほぼ確実と思われます。例えば、冶鳥は夜中人の形に化けて蟹を取り、(主に人間の熾した)火で炙って食ったりします。これは山魈にも良く見られる特徴です。なぜか蟹好き。また上記の「虎と仲良し」*7とか、やたら精巧な巣を作る*8 というのも共通の特徴です。
「越人好巫」「楚人好巫」などと呼ばれるように、越や楚といった江南地域の人々はシャーマニックなことに傾倒する民族とみられていたようです。畏怖すべき猛獣である虎を従える鳥、冶鳥(山魈)を祖先とした越のシャーマンたちは、民族の中でも高い権威を保っていたことでしょう。


で。
この山魈さんが一本足である理由というのが、おそらくシャーマンと山魈の関係性に依るのではないか、というのが今回の本題その1。
一本足の理由説明としては、東洋史学者である貝塚茂樹が「夔(キと読み、一本足の神。山魈と同一視されることも多い)は鍛冶の部族の守護神であり、その奴隷は片足が不自由であった(もしくは枷などで不自由にさせられた)ため、その姿から着想された」という説を唱えている*9一方、同じく東洋史学者である桐本東太は一本足が樹木の幹からのアナロジーであるとしています*10。それぞれ論拠はあるのですが、貝塚説は金属民と山魈を結び付ける資料がない、 桐本説は樹木と山魈についての関係性に疑問が残る、という点で問題が残ります。あまり書くと本論から脱輪するため、詳細は省きますが。
ともあれ、そこで一本足にはシャーマンが関わってくるのではないか、というのが私の考えです。
現代の観察事例ですが、華南及び東南アジアの山地焼畑民が神を祀る舞踏の中に、司祭者(≒シャーマンであったと考えられる)が片足で跳び回るものが数多くあるようです*11。越も古来よりそうした儀礼を持っていると考えると、山魈の足の説明がつきます。
大地を片足で踏みしめたり叩いたりするのは、土地の霊を鎮める、あるいは大地を身ごもらせる仕草として豊作を祈るなどの効果が期待されることが多いようですが、そうした本来の効果はさておき、先祖が山神であり、霊と交流するとされているシャーマンが片足で跳んでいる姿を見た者は、たとえば先祖の山神が乗り移った姿をそこに見たのではないでしょうか。*12


と。
そんな感じで越とシャーマンと山魈は古くは3,4世紀ごろから切っても切れない仲だったようなわけですが。
12世紀初頭、北宋が滅びて南宋になったのに合わせ、大量の漢民族が南の方に雪崩れ込んできました。政治的説明は略。
それと同時期、山魈にも大きな変化が起こります。
これまで少数民族の神(漢民族にとっては妖怪)であった山魈が、五通神という名前で漢民族にまで信仰されるようになるのです*13。この変化の裏に先に挙げた越のシャーマンがいたのではないか、というのが今回の本題その2。
正確には、「山魈」は変わらず妖怪として扱われ*14、「五通神」はしばしば一本足の神として江南に登場するものの、山とも虎とも関係なく、女性をナニしたりする好色な神格、また敬わないものには激しい罰を、拝み祀ると富をもたらす神格として立ち現れます。この五通神、山魈とほとんど共通要素がないじゃないか、と思われるかもしれませんが、時の記録類では五通神がすなわち山魈である、と書かれており、少なくとも当時の人は違和感なく山魈=五通神と理解していたようです。
こうした妖しい神は時の政府によってしばしば弾圧されますが、霊威の強い神は民衆によって支持され、大いに流行します。そして妖しい神が庶民の間で流行する背景として、「巫」、つまりシャーマンが大量に出現し、そうした神を広めたことが挙げられています。この「巫」は、山魈の子孫を自称していた越のシャーマンと同じものを指すのではないでしょうか。

漢民族流入に伴い、越族が本来住んでいた山がちな土地も都市化され、越のシャーマンも安穏と暮らしているわけにはいかなくなりました。そこで、漢民族の需要・都市化している現状に合わせて、霊威として金銭的な面や祟りを強調し、山神や虎といった要素を切り捨て、五通神という形で漢民族に信仰するよう働きかけます。漢民族従来の信仰の衰退もあり、霊威溢れる神は熱心に信仰されるようになりました。
……というのが予想しうるストーリー。
そういう背景があったため、山魈などという少数民族の神格(漢民族にとっては妖怪)が元となった神が広く信仰されたのでしょう。共通点のさほど多くない“山の妖怪:山魈”と“霊威の強い流行神:五通神”が同類と自然に理解されたのも、その伝承を中心となって支えた人間が同じ越のシャーマンであったためと考えられます。
ちなみに、現代においてこれらは再び習合し、民話の中で「山魈」と「五通」が相互に置換可能なものとして記録されています。これも山魈=五通神の傍証と言えるのではないでしょうか。

あ。
またも長くなって結局何が言いたいかわからなくなりましたが。
1:越のシャーマンが山魈伝承の媒介者であり、山魈が一本足なのはその影響と思われる
2:時代が下って山魈が変質して五通神を生み出すが、その背景には越のシャーマンが関わり、漢民族という新たな信仰の担い手に合わせて神の性格を変化させたと思われる

と、要はそういういうことです。
時代に伴った民族の動き、あるいは信仰の媒介者と担い手によって妖怪がダイナミックに変化していくんだ、という一例として挙げてみたのですが、いかがでしたでしょうか?
いやぁ、妖怪って本当にいいものですね。それでは、さよなら、さよなら、さよなら。

おまけ

ついでに、日本の妖怪との関係についても一言。
一本足で山の神・あるいは妖怪と言えば、日本にも一本だたら、一つ目小僧、山爺といったものが伝わっています。この辺りについては柳田國男「一目小僧その他」参照のこと。
一本足、山の神/妖怪以外にも、特定の時期に山から地上へ降りてくるという点、山の神が田の神になるという日本の信仰に対し、山魈が耕作を手伝った話があることなど、類似点は多数あり、おそらく山魈の伝承が日本のそれらに大きな影響を与えたと思われます。
ただ一方で、中国の伝承を単純に移植したわけでもないようです。日本の一本足どもは多く一つ目の特徴も兼ねているのですが、山魈の方はあまりそんなこともなく。
そのため、柳田國男の「一つ目一本足の山の神/妖怪は、神に捧げる生贄の人間の片目片足を損傷した姿から来たのだ」説や、谷川健一の「一つ目一本足の山の神/妖怪は、山中在住の製鉄民が長年炉の中見て片目がやられ、長年蹈鞴を踏んで片足がやられた姿から来たのだ」説を無批判に中国の山魈に敷衍するわけにはいかないようです。ちなみに、片目片足が金属民と関係ある、というのは柳田も指摘するところではあるのですが、物理的要因ではなく、信仰に帰しています。そうした金属民説に関しては、山魈と金属を結び付ける伝承が見当たらないことも傍証として挙げられるでしょう。

*1:そんな曖昧な、と思われるかもしれませんが、河童の仲間なんかも同じようなくくり方で理解をすることが多いです。皿があってもなくても相撲とってもとらなくても河童。

*2:『太平広記』巻第四百二十八『広異記』「斑子」

*3:『太平広記』巻第四百二十八『広異記』「劉薦」

*4:『太平広記』巻第三百六十一『会昌解頤録』「元自虚」

*5:ちなみに越という単一の民族と言うよりも、越の国近辺に在住していた少数民族の総称、と考えた方がいいでしょう。今後はとりあえず越族とでも表記してみます

*6:『捜神記』巻十二「冶鳥」

*7:前掲「冶鳥」に、冶鳥が住む木を虎が一晩中見張り、人間が立ち去らないと傷害を受ける、という条あり

*8:前掲「冶鳥」だけでなく、『太平広記』巻第四百八十二『洽聞記』「木客」や『太平広記』巻第三百二十四『南康記』「山都」などに、それぞれ作りは違えど精巧な巣の描写が。山魈の古称である山繅・山臊(どちらもサンソウ)のソウは発音から来る当て字で、本来は巣を表していたのではないかと思われる。

*9:貝塚茂樹「神々の誕生」(『貝塚茂樹著作集 第五巻』中央公論社,1976)

*10:桐本東太「山中の独脚鬼に関する一考察――日中の比較」(『中国古代の民俗と文化』,2004)

*11:越国は華南というよりも華東ですが、山魈の伝承分布は中国南部の広域にわたっていること、越族それ自体は東南アジアであるベトナムまで移動した、とされることから、越と言う国のくくりよりも、越近辺に在住していた少数民族というくくりで考えるべきでしょう。

*12:社会人類学者の竹村卓二や写真家・研究家である萩原秀三郎も山魈や夔と片足跳びの関係について考察していますが、一本足の神の姿を模して片足跳びの儀式が発生した、と、ちょうど逆の見解を示しています。

*13:この辺りは南宋に書かれた『夷堅志』参照のこと。「江南木客」「孔勞蟲」など。

*14:記録類はほとんどが漢民族の手になるものであり、それ以前も大体の記録では神と言うより妖怪として扱われています