祭竒洞

姑らく妄りに之を志す。

「お化けは死なない」ことについて

 妖怪はいるだろうか?
 ――いる、と思ったあなたも、いない、と思ったあなたも、何をもって「妖怪」と判断したのだろう。
我々は何となく妖怪というものを知った気になり、他人との会話でもお互いに意味を確認しあうことなく使い、それで意味が通じている。
しかし妖怪などというものは一般的には非実在とされており、その辺りにわかりやすい形で転がっているわけでもないため、アレやソレがそうだと指差してお互い確認し合うことは難しい。更には、様々な姿・性質のものがおり、そのバリエーションは実在の動物の比ではない(例えば目の数だけ考えても0から100までいるのだ)ため、これこれこういうものが妖怪だ、と一口に説明するのもまた難しい。では我々が妖怪を理解・認識するのは何によるのだろうか。何をもって妖怪というカテゴリを知り、そこに入れるものと入れないものを決定していくのか。
 それはおそらく、妖怪図鑑的なものである。「的なもの」と表現したのは、ここで指すものが必ずしも図鑑そのものとは限らないからだ。たとえば妖怪の出てくる漫画やアニメでもよい。とにかく見慣れぬ形をした奴等が何種類もいて、それらが全て釤妖怪釤とひとくくりにされているものである。その「妖怪図鑑的なもの」には多くの場合、図像と説明がセットで付されることとなる。何かの形で見た河童や天狗たちと一緒に奇妙な奴等が並んでいる。その状態を見て我々は、こうした様々な姿・性質を持った何か(そう、そいつらが生物かどうかすらも曖昧なのだ)が河童や天狗と同一カテゴリに属するものであり、妖怪と呼ばれる存在であると認識する。そのようにして私たちの頭の中にもだんだんと自分自身の妖怪図鑑=「妖怪データベース」が構築されていくのだ。
 作る側にも享受する側にもおぼろげな共同イメージがあって、それを引用して個人の妖怪データベースを構築していく。そしてそのデータベースに当てはまるものを次々と個人の妖怪データベースに取り入れていき、場合によっては自分のデータベース内部の情報を他に伝達する形で再生産する。妖怪を「○○である」と定義することはできないのはこのためである。
 しかし、自らのデータベースに登録されている妖怪たちから外延的に考えることでおぼろげながら見えてくる妖怪の特徴はある。たとえば「存在しないが昔は信じられていた」「妙な姿をし、不思議な現象を起こす」「誰かの作り話」ということ。しかし、これらは正確とは言えない。誤解、とは言えないまでも、妖怪を理解するにはある種の不足があると言える。妖怪の発生と定着のモデルケースを考えることで、いったい何が不足であるのか、を考えていきたいと思う。
 妖怪という存在が生み出される原因のうち最も単純なもののひとつは、「ある種の不可解な現象が発生し、その原因を設定したいという欲望が生じたため」である。例えば、川辺で誰もいないのに小豆を洗うような音が聞こえたとき、その音は小豆洗いの仕業、と設定することで一応の安心を得る。怪現象を起こす主体としての妖怪である。その設定が個人レベルではなく共同体レベルで認められた時、その妖怪は共同体に定着し、伝承として残っていくこととなる。その後別の者が同様の、あるいは異なった体験をし、それも同一の妖怪の仕業とされることにより、その伝承は共同体内部で強化されていく。先の小豆洗いの例で言うならば、同じ川辺で誰もいない夜中に歌を聞いたと感じた時、その歌も同じ小豆洗いの仕業とされれば、小豆洗いはやはり存在する、そして小豆を洗うだけでなく歌を歌うものなのだ、と理解される。
 上に出した小豆洗いの例のように個人から共同体という社会に吸い上げられるだけでなく、ある伝承を知った者が、伝承と同一の現象を体験したと感じてしまうこともあっただろう。小豆洗いの伝承を聴いて育った子供は、伝承される川のほとりを通った時に小豆を洗う音やその歌が聞こえないかとおびえ、あるいはそれを幻聴する。その事実がまた妖怪の存在を保証する。こうして妖怪は個人と社会を往還しながら強化されていくのだ。
 ここまでのモデルケースでは、少なくとも個人の体験中では不可解な現象は発生し、社会も現象の存在を許容している。また、妖怪そのものの存在も個人的体験・社会的承認を得ていることになっている。
 そういう意味では、妖怪はその時点では「実在」している。では、何者かによって創作された妖怪はどうだろうか。
 創作の妖怪は、当然のことではあるが、既にある妖怪、つまり「奇妙な現象の原因」を模して作られる。そのため、架空の妖怪にはその妖怪が起こす「奇妙な現象」が付いて回ることとなる。そして、その創作された妖怪が起こす現象が実際に観測された(あるいは過去現在未来のいずれかで観測されうると考えられた)時、妖怪は創作の域を超えて根付くこととなる。過去に観測されうるとはわかりにくい表現だが、換言すれば「昔はそういうことがあり得たかもしれない」との意味である。同じような伝説が全く離れた地域で「そこにあったこと」として根付いていることを連想してもらえばわかりやすいだろうか。このとき、「実在する/した」妖怪にとって創作者の存在は邪魔な情報になるため、意識されなくなる。特定の創作者が意識されれば、それはあくまで特定の個人の創意から出た虚構の存在、作り話として「実在」し得ないものと理解されてしまうためである。
 創作者の存在が意識から消え、現実世界において観測される/され得ると考えられた瞬間こそが、創作物が特定の個人の創作を超えて現実に根付いた瞬間である。こうした現象は、ある共同体Aに属する妖怪が別の共同体Bに(例えばAからBにやってきた個人により)持ち込まれた時も適用される。個人のもたらした妖怪が実在に至った時、個人の情報、創作や伝播の痕跡は隠蔽されるのである。こうして現実と創作の間でも妖怪の往還運動が発生し、強化・発達していく。
 ここまで、体験をベースとした妖怪の誕生と成長を見てきた。そこに先に挙げた妖怪図鑑が登場することで、妖怪の誕生・成長は大きな変化を起こすこととなる。
 妖怪図鑑の大きな特徴は、多くの場合図像と説明がセットであること、および全ての妖怪が並列に配置されていることである。
 体験をベースとした、もしくはそれを模した妖怪には必ずしも視覚的イメージ=外見があるとは限らないが、外見があるモノについては奇妙な姿をしている場合が多い。ひとつは奇妙な姿の目撃自体が怪現象であるため、奇妙な姿をしたものがすなわち妖怪と扱われたためである。また、怪異な現象を起こすものはその現象にふさわしい姿をしているだろう、という想像もあろうか。そしてもうひとつ大きな理由があるが、これは後述する。
 ともあれ、図鑑化することによって、それまで姿がなかった妖怪にも、前述のような奇妙な姿を持つものに倣った絵が付されるようになる。
また、奇妙な外見を持つ妖怪を集めた絵巻などが図鑑に先行して作られていたと考えられるが、そこでは伝承される妖怪たちの視覚的な怪しさを模して作り出された、絵のみで物語(=彼らが起こす怪現象)のない妖怪たちが誕生していた。それらは伝承の妖怪以上に奇妙な外見を強調されて描かれることが多かったが、これはそうでなければ絵としてのインパクトがなく、絵巻にのみ登場する妖怪が(伝承の妖怪たちに連なる)「奇妙なもの」であることが伝わらない、ということによるだろう。このことは図像のみ、あるいは図像が中心で説明が殆どないものにとって特に重要な理由である。
 そうした妖怪たちも図鑑に載るにあたって、他の妖怪たちと並列にする必要性から物語を与えられ、あたかも実在する/した妖怪のように扱われる。
 妖怪図鑑の発生と定着によって、妖怪は図像と物語のセットで捉えられるようになった。片方しかないものにはもう片方が付け加えられ、あたかも昔から「その伝承が実在して」「その姿と思われていた」かのように認識されはじめたのである。片方がもう片方に影響を与え、変化させることも少なからずあっただろう。図像/物語の往還によっても妖怪は変容してきたのである。
 さて。
 個人の妄想や錯覚などの主観、あるいは虚構や創作であったものが、その枠を越えて発展・成長し、妖怪となった時なにが起こるのか。
 民俗学の知見によれば、妖怪とは境界にいるものである。自分のいる世界と、その外側である得体の知れぬ世界・異界が分かれる線が境界である。そして橋、辻、村境などの物理的な境界・黄昏時などの時間的な境界は上記のような象徴的な境界でもあり、そこに妖怪は現れるとされている。
 一方でここまで見てきたとおり、妖怪は個人/社会、創作/現実、図像/物語、の境界に存在するものであり、二者間の往還運動により成長するものである。
 そしてもう一つ、妖怪が存在する大きな境界がある。実在/非実在である。創作/現実と似ているがもう少し大きい括りであり、つまり妖怪はすべて虚構かどうか、ということでもある。
 先に書いたように、現在、妖怪は非実在とする向きが大勢を占めているため、妖怪図鑑に掲載されることはすなわちある意味では非実在を保証されることでもある。しかし一方で妖怪図鑑に掲載されることは、(たとえそれが無知蒙昧で野蛮な前近代人にとってであれ)かつては誰かがその現象を体験した、そしてその現象を承認した社会があったということとも理解される。誰かの作り話ではなく誰もが感じ得る現象であったというある種の証明である。そうした意識が、何かの怪奇現象を体験したときに「妖怪の仕業では?」と一瞬でも考え、自らの妖怪データベースを検索する行為を生む。境界にいるということは、どちらにも属することができる、ということでもある。たとえ近代的意識が妖怪を非実在の側に追いやっても、そうした回路を通じてふとした瞬間に実在の方に染み出してくるのである。
 これは他の境界にも当てはまる。たとえば図像が失われても、物語が残ればそこからいつか妖怪図鑑に戻るに当たり新たな図像が考案される。たとえば共同体が崩壊しても個人のデータベースに残り、残った妖怪たちが妖怪図鑑に共有されれば共同体の外にもそれが根付くことになる。たとえばある妖怪が誰かの創作であると明らかになっても、それが既に「妖怪」として共有されていれば創作のはずの妖怪が引き起こす現象に出会う人もあらわれ、その妖怪のイメージを新たにするだろう。そして境界の両側を往還するほどその妖怪の周辺イメージは強固となっていくのだ。
 境界の存在である限り、片側が抑圧されてももう片側で命を長らえ、抑圧が緩めば何事もなかったかのようにいつか再び顔を出す。
 「楽しいな 楽しいな お化けは死なない」
 日本一有名な妖怪アニメは、その原作者が主題歌を作詞している。現代日本における妖怪の姿を決定づけたその人の言葉は、私が多言を弄して読み解いたことなどとっくにお見通しだとばかりに響くのであった。




2010年12月5日の文学フリマにて頒布した『b1228 vol.1 fictional』に寄稿したもの。
id:b1228 あたり参照。
ちなみに当blogの参加時の記事はこれ。id:anachrism:20101123

しばらく再販などの予定はないというので、エイヤッと公開してしまいました。
元のルールが注釈禁止だったので注釈はつけないことにします。
元のルールでは小説と評論の二本立てだったのですが、小説は公開予定ありません。

内容としてはこのあたりの進化系ですね。 id:anachrism:20090307


……ヴィイの話はまたそのうち。