祭竒洞

姑らく妄りに之を志す。

テヅカ・オブ・ザ・デッドというゾンビ映画はどうだろう

0.はじめに

またも某護法少女とは関係ないのに伊藤剛な人の話をしてしまう。
伊藤剛テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(NTT出版,2005)に出てくる「キャラ/キャラクター」という分類を、
うまく妖怪に適用できないか考えてみた、というお話です。
相変わらず根拠レスに勢いだけで語ってますのでひとつよろしく。
そして相変わらず妖怪の定義が曖昧なまま使ってしまいますがそれもよろしく。
更にTiD*1をいまいち理解してない気もしますがそれも以下略。

1.そもそもキャラ/キャラクターとは?

もともとは漫画の分析で伊藤が用いた概念で、
漫画等の登場人物についてなどの二種類のリアリティを説明するもの。

キャラクターは背景に「人生」を持っている存在としての登場人物。
絵で表現されていても、実際は生身の人間(あるいはそれに類するもの)を表現しており、
漫画はその人生の一部を絵で表現しているだけである。
そのため、キャラクターはその属する物語(=人生)から切り離すことが出来ない。

一方でキャラは単純な線画で成立しており、名前と外見と「人格・のようなもの」はあるが、
それと不可分な人生は持っていない。
逆に言えば、キャラクターが背後に持っているような「人生」「物語」といった参照項がなくても、あるいはそうした文脈から切り離されていても存在が成立する。
そのため、本来の文脈と切り離された作品である二次創作等にも耐えうるものである。

……という大雑把な理解をしているのですが、間違っているかもしれません。


で。
このキャラ・キャラクターの定義をかなり恣意的に読み変えると

キャラクター:背景の物語があって成立する
キャラ:単体でも成立し、物語を横断しうる

という感じになる訳で。
ではこれらを妖怪に当てはめるとどうなるか。

2.妖怪の発生とキャラ化

ではまず、妖怪がどのように発生するかを考えてみることにします。
色んな発生の仕方があるとは思いますが、まず一つの素朴な型として。

理念化した妖怪の生成過程(ざっくり)
a.怪奇現象の発生
b.主体の仮定
c.属性の追加(外見・特徴等)
d.図像化


具体例
a.ひぃ、置いておいたリモコンがない!
b.それは妖怪「リモコン隠し」じゃ!
c.リモコン隠すぐらいだからちっちゃくて、手が生えててetc
d.(各自思い描いて下さい)


この場合、a.で発生した現象を説明するb.の時点で妖怪が発生します。
b.の時点では、「リモコンがない」という体験談(物語)と
その原因である「妖怪リモコン隠し」の存在は不可分に結びついています。
この場合の「リモコン隠し」は背景に不可分な物語を持つ「キャラクター」と言えるでしょう。
c.の段階でもまだ物語と結びついていますが、一方で様々な属性が追加される事で「キャラ」として成立しやすくなっていきます。
d.に至って図像となり、一部で共有されていた本来の文脈から切り離されても成立するようになる=「キャラ」となります。
つまり、必ずしもリモコンを隠す、という行動を絵の上でしなくても、見る人に妖怪だと認知されるようになるわけです。*2


そしてまた実際のところ、a.からd.に至るまでは一直線ではなく、
a.〜c.までを何度も繰り返すことで属性が増えて行く、ということがままあります。
村の古老システム*3などがフル活用されたりされなかったりしながら、共同体の中で付加された設定が共有されていきます。


具体例
a.山で怪しい奴に会った!
b.それは天狗じゃ!
a.山の中で怪しい音が!
b.天狗の仕業じゃ!
c.天狗って音立てるのかー
a.山の中で石が降って(以下略)
b.天狗の(略)
c.天狗って石降らすのかー

ってな感じ。
こうした場合は、「山の中で何か起こったらあいつのせい」という属性が追加される事で外見等が規定され、「キャラ」になりやすくなると思われます。
おそらく。多分。

3.キャラ先行妖怪

前段では、「怪奇現象の主体として発生した妖怪は物語と不可分のキャラクターであるが、それが特徴を設定され、図像化することで本来の文脈と切り離せるキャラになる」ということを述べました。
これは大体村落などの共同体で発生するものと思われます。

一方で、別の発生の仕方をする妖怪もいます。
たとえば、絵が先にありきの妖怪。
具体的には、鳥山石燕「図画百鬼夜行」の大半の妖怪などがこれに当たります。
「創作妖怪」なんて言い方もあるようですが、これについては、上の発生過程で言うとd.からスタートするという、前段とはまったく逆の形となります。
ここで問題となるのが、どうして図像しかないそれが「妖怪」と判断されるのか。
たとえば「ぬらりひょん」なんかは元々ほぼ図像だけから成立したのですが、何故か「妖怪」と扱われています。*4
また、実は先のキャラクター先行妖怪が図像化したときにも同じことが言えるわけです。
たとえば思い浮かべていただきたいのは、黄桜のCMに登場する河童。ルンパッパ。
彼らは尻子玉を抜く訳でも牛や馬を溺れさせる訳でもないですが、厳然として河童であり、妖怪です。一体これは何故なのか。

描かれたものが「妖怪」として扱われる理由として、まず異形である、ということが考えられます。つまり普通の人間や動物などと違う形、見たこともない異様な姿をしていること。
一つ目小僧、ネコマタ、傘化け、あるいは上記の河童等々。
怪しい行動をしなくても、怪しい外見をしているだけで妖怪である、
というのはまぁ当たり前と言えば当たり前な訳で。

では、描かれた絵が怪しい外見じゃなければ妖怪とは呼べないのか。
あるいは、描かれた絵が怪しい外見であれば妖怪と認識されるのか。


そこでたとえば豆腐小僧という妖怪を例として考えることができます。
要は豆腐を持った少年という外見の妖怪が、黄表紙に登場するわけですが、こいつには特に伝承も何もない。
外見が異常でもなく、行動がさして異常なわけでもないこいつが何故妖怪なのか。*5
豆腐小僧に関して言えば、先行する一つ目小僧や酒買い狸といった妖怪の図像があり、その姿と豆腐小僧の恰好が類似していることが大きな理由として挙げられます。また、おそらくは「小僧」であることが、数多くいる子供の姿をした妖怪への連想を働かせています。
……というように、妖怪と認識されるためにはそれまで蓄積された「妖怪らしさ」のコードを押さえる必要がある、と考えられます。何がしかの妖怪らしいコード(広く言えば「異様な見かけ」も含む)を押さえた外見の図像が、妖怪と認められるわけです。*6

4.捏造される背景(図鑑とキャラクター化)

前段では図像から発生し背景を持たない(=キャラ)妖怪の存在、及び彼らが妖怪として判断されるためには「異形性」及び「妖怪らしさのコード」が重要であるという話を致しました。
さて、彼らは果たして背景がないまま「妖怪」として存在し続けるのか。
媒体によりますが、我々のイメージする妖怪は、やはり怪奇現象を起こす主体として想定されるものが多いと思います。
本来はキャラクターの背景、つまり怪奇現象を伴う伝承を持たなかった妖怪についても、伝承(先の生成過程で言うa.b.)があるかのように語られることが多くあります。
その理由として、妖怪図鑑、あるいは図鑑的な役割をするもの*7の存在が考えられるんじゃないかと。*8
図鑑では伝承のある妖怪(=キャラクター)と、伝承のない妖怪(=キャラ)が「妖怪」として同列に並べられます。
前者は図鑑に載せられる事で地域とその人間に密着した本来の伝承から切り離されてキャラ化し、他の=本来の文脈から離れた物語にも存在できるようになる。
一方で、後者は前者と同様の体裁を整えるために、似たようなものの伝承を当てはめる、勝手に一から物語を作る、などの方法によって背景を後付けで捏造し、元々は「キャラクター」であったことを装わせる。
こうしてキャラクターであった妖怪とキャラであった妖怪は一律に、"キャラクターである過去を持つ(とされる)"・"過去(=本来の背景である伝承、あるいは後付けされた伝承もどき)からはある程度切り離されたキャラ"として妖怪図鑑の項目に載録されることとなります。

5.妖怪図鑑とキャラの再生産

前段に記したような形で、一度妖怪図鑑に収録されたキャラ=妖怪は、様々なメディアで参照されることとなります。小説や漫画などの創作、譬えや冗談、更には実際の怪奇現象の説明にも、その妖怪の持つ過去、つまり発生のきっかけとなった背景やそれと分かちがたく結びついている限定された地域性や作者性等とは関係なく引っ張り出されるようになるわけです。
そしてそれぞれの物語の中で妖怪が必要な位置を占め、その妖怪の新たな物語が人口に膾炙するようになります。これは、背景がなく、文脈から取り外し可能な"キャラ"である個々の妖怪が、それぞれの物語に根を下ろしキャラクターとなった状態と言えるでしょう。
そしてまた、キャラクターは新たに作られる図鑑的なものにフィードバックされ、キャラを変化させる。この運動を繰り返すことでエピソードと属性が付加されたり忘れられたりしながら、妖怪はキャラクター⇔キャラを往還することとなります。
更新され続ける妖怪図鑑的なるものに、キャラクターから、あるいはキャラクターもどきからキャラとして載る事で、妖怪は背景の伝承から切り離しても存在を続けられるようになりました。たとえ伝承が滅びても図鑑には残り続け、また別の物語に根付くことが可能となったのです。

ここまで大いに参照してきた「キャラ/キャラクター」論の提唱者である伊藤剛は「テヅカ・イズ・デッド」の中で、キャラクターを以下のように定義しました。

「キャラクター」とは、「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの*9

また、ここで伊藤が呼んでいる「「身体」の表象」は、大塚英志の言う「死にゆく体」とほぼ同じものとして立論しているようです。*10
つまり、キャラクターはキャラと違って、物語の中で死にうる存在である、と言えます。
そのような意味では、本来の文脈から遊離して「キャラ」となった妖怪たちは、物語の内側での「死」から自由になったと言えるでしょう。
また、更新され続ける妖怪図鑑というデータベースに載ることで、発生のきっかけである物語や共同体自体が消えてなくなることによる物語の外側での「死」からも免れる可能性を手に入れました。

まさに日本一有名な妖怪アニメで歌われていたように、「お化けは死なない」のです。

*1:テヅカ・イズ・デッド」の略称。先日思いついた。

*2:図像化されない妖怪もいますし、図像化だけが終着点ではないのですが、ここは漫画の分析概念をもとにした話であること、図像化のインパクトはやはり強いということで、かなり話を絞ってお送りしています

*3:怪奇現象に対してある種の権威者が主体を特定することで規定される、というシステムを勝手に命名。これについては別に記事を設けて語りたい所

*4:実際のところ、「妖怪」とか「百鬼夜行」とかがタイトルや名前についているから、というのも大きいと思いますが、それを言ってしまうと身も蓋もないので今回は措いておきます

*5:この辺りは京極夏彦豆腐小僧双六道中ふりだし』(講談社,2003)参照

*6:「妖怪らしさ」のコード個々の内容については長くなりそうなので今回深く立ち入りません。(現代の)妖怪イメージを規定するコードについては京極夏彦妖怪の理 妖怪の檻 (怪BOOKS)』(角川グループパブリッシング,2007)などを参照

*7:たとえば一話完結で色々な妖怪が出てくる漫画など。とにかく数多くの妖怪が説明付きで一堂に会するようなもの

*8:奇妙なもののリスト化=「妖怪図鑑的なものへの欲望」とかもあるはずなのですが、本筋から外れる上とても長くなる気がしますので省略。

*9:伊藤剛テヅカ・イズ・デッドNTT出版,2005 p95-p97

*10:伊藤前掲書,p129-134