祭竒洞

姑らく妄りに之を志す。

世はなべて天狗の仕業

といってもアレでアレなアレではなく。妖怪の方。
至極大雑把に言えば「山の中で何か起こったらそれは天狗の仕業」なわけです、というお話をしようかと思います。

もちろんそれで天狗さんの全てが説明できるはずもなく、
「仏教の敵」とか「いやいや仏教の味方」*1とか、「空を飛ぶぜ」とか「実はルシファーですが?」とか「正体は役小角だし」*2とか、まぁ天狗の要素は色々あるわけですが、最大公約数でざっくりまとめたと思っていただきたく。詳しく知りたい方は知切光歳*3でも読むといいんじゃないか、という事で。

ではなぜ山の中での怪現象が天狗の仕業なのか。
言い方を変えれば誰が何故そのようにジャッジしたのか。

民衆の集合知だか集合的無意識だかが全国津々浦々の山々に天狗と呼ばれる妖怪を生み出したのだ、ということになると美しいのですが、天狗なんて明らかに漢語由来の小難しげな、なおかつ字面と音韻だけでは「山」を微塵も連想させない単語が日本各地の山村で同時多発するわけもなく。
まず各共同体に天狗という言葉、天狗の性質を定着させた人間がおり、それが次第にコミュニティ内で共有される知識となったのではないか、と考える方が妥当なのではないかと。

ここで考えてみたいのが、以前の記事*4で少し触れた「村の古老システム」。

※村の古老システムとは?
怪奇現象に対し、ある種の権威者が現象の主体を判断・特定することで、
その主体が規定される、というシステム。
命名:俺

ここまでの流れに即して譬えるならば、村で一番知識を持っている(と信じられている)人間が山での怪奇現象に対して「それは天狗の仕業じゃ!」と言えば、村の人間は“テング”なる存在がその現象を起こしたと「理解」する。

というような共同体内のシステムを指しています。

天狗に限らず妖怪一般の成立に関しては、こうしたシステムの存在が大きいんじゃないかと思ったりしています。
ある妖怪が成立するためには、怪奇現象の発生だけでなく、それを誰かが解釈して「妖怪の仕業」と判断すること、そしてその解釈が受け入れられることが必要と言えるでしょう。
解釈をするためには知識の蓄積が、それが受け入れられるためには共同体内部での信用が不可欠。そうした前提を備えた人間が、たとえば村であれば一番の年長者であるというパターンというのはいかにもありそうな話ということで、村の古老システムと命名してみたわけです。

天狗に話を戻すならば、「天狗」についての知識は自然に降って来るものではない訳で、外部の人間の話、もしくは書物などのメディアによってもたらされるという場合がほとんどであると思われます。
そうした時に、本を購入して内容を理解するだけの、あるいは外部からの人間を受け入れるだけの金銭的余裕、インテリジェンス、あるいは権威・権力のある人間が、システムで言う「村の古老」として(実年齢等とは必ずしも関係なく)機能し易いということになります。

上記のような条件を持つ人間が、外部からの最新知識(それが旅の僧侶*5の話であれ、文化的中心で出版された本であれ)で怪現象に対して判断を行えば、それが共同体で受容される可能性は非常に高いでしょう。村の古老による判断が繰り返されればその判断は定着し、以降は同様の現象に対して前例と同じ判断が共同体から下されることとなります。
具体的には山で何かが起こるたびに古老が「天狗の仕業じゃ」と言い続ければ、山で何か起これば天狗の仕業、という通念が共同体内で成立し、山での怪奇現象に対して古老を通さずとも天狗の仕業と判断できるようになります。

と、このように「天狗」などという若干小難しげな妖怪なんかが村の古老システムによって地方の共同体に定着していったのではないだろうか、というお話なのでした。

ここまで天狗をダシにして「村の古老システム」について語ってきましたが、このシステムは必ずしも先に挙げたように中心→周縁に限った話ではなく、もう少し広い事例を指せるのではないかと思います。
たとえば、ずいぶん以前の記事*6に書いた、中国の天人相関説及びそれを日本に持ってきた時の解釈機構。

時の政治が悪いと天がそれを感じて警告として災害を起こしたり謎の動物を出現させたりする、という考え方があり、何か起こった時に為政者の何が悪かったかを占い等で解釈する機構が律令国家には配備されていた。

というのがそのごく大雑把な内容ですが、占い等の専門技術を持った人間(=ある種の権威者)が、災害、あるいは怪異の原因を判断することで国家の怪異に対する解釈が決定される、という意味ではこれも一種の村の古老システムと呼んでいいのではないかと。

また、みたび天狗の話に戻るならば、『日本書紀』の僧旻*7が音を立てて流れる星を見て「あれは流星じゃない、天狗じゃ」的なことを言ったという記述が日本における「天狗」という記述の最古だと言われています。のちの天狗とはあまり関係なさそうな話ではありますが。
もともと「天狗」というのは中国の妖怪的なものである、というのは一部には有名な話です。『史記』や『漢書』に見られる、でかい音を立てて光りながら空をかける巨大ワンコ。

中国帰りのインテリゲンチアであり、仏教だけでなく先に書いたような中国思想にも詳しい僧旻が音を立てて流れる星を天狗と解釈・判断したことで、天狗という言葉が日本に輸入され、(本来指したものとは違う形で)定着し始める。
日本の天狗は始まりからして村の古老システムに則ったものであったと言えるのではないか、と思います。


……と、きれいに締めようと思ったのですが、なんというか半端に食い足りない感のある文章になってしまいました。結局天狗さんは何者なのか、ということはなるべく触れずにシステムの方を考えて来たのですが、どうもその辺りが原因の模様。それなら何も天狗である必然性がないじゃん、という。システムについてもまだまだ語る余地はありそうですし。

次回以降いつか

  • で、「村の古老システム」って結局何なのさ
  • 各地域での「村の古老システム」は、国家的「村の古老システム」の縮小再生産なのか?
  • 現代に「村の古老システム」は生きているか?

なんてことを考えてみたいとは思っていますが、予定は未定。

*1:わかる人だけにわかる話。ソワカちゃん的に言えばこっちの方がしっくりきますね。鼻の高い天狗は仏教守護の側面が大きいようですし。某マロとか某天狗さんとか。

*2:パパの人のブログより。この指摘は結構面白かった。天狗=星と修験道の宿曜占星術とか妖霊星とか絡めるともっと面白そうだけど妄想度もUP!真面目に考えるなら『日本書紀』の成立年代と小角伝説化がどの程度オーバーラップするか、といったところか。

*3:天狗の研究』という本を書いた天狗研究家

*4:この記事の2.妖怪の発生とキャラ化あたり。

*5:天狗の伝播にはこうした人々、特に山岳修行者が深く関わっているようですが、今回はそれが共同体内部でどう受け入れられたかという話なので割愛

*6:この記事の半分より下あたり。

*7:そうみん。本当は日文という名前らしいですが。僧旻チャンプルーとか、「ねぇ僧旻、こっち向いて」とか書かなかったのは良心だと思っていただきたい

テヅカ・オブ・ザ・デッドというゾンビ映画はどうだろう

0.はじめに

またも某護法少女とは関係ないのに伊藤剛な人の話をしてしまう。
伊藤剛テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(NTT出版,2005)に出てくる「キャラ/キャラクター」という分類を、
うまく妖怪に適用できないか考えてみた、というお話です。
相変わらず根拠レスに勢いだけで語ってますのでひとつよろしく。
そして相変わらず妖怪の定義が曖昧なまま使ってしまいますがそれもよろしく。
更にTiD*1をいまいち理解してない気もしますがそれも以下略。

1.そもそもキャラ/キャラクターとは?

もともとは漫画の分析で伊藤が用いた概念で、
漫画等の登場人物についてなどの二種類のリアリティを説明するもの。

キャラクターは背景に「人生」を持っている存在としての登場人物。
絵で表現されていても、実際は生身の人間(あるいはそれに類するもの)を表現しており、
漫画はその人生の一部を絵で表現しているだけである。
そのため、キャラクターはその属する物語(=人生)から切り離すことが出来ない。

一方でキャラは単純な線画で成立しており、名前と外見と「人格・のようなもの」はあるが、
それと不可分な人生は持っていない。
逆に言えば、キャラクターが背後に持っているような「人生」「物語」といった参照項がなくても、あるいはそうした文脈から切り離されていても存在が成立する。
そのため、本来の文脈と切り離された作品である二次創作等にも耐えうるものである。

……という大雑把な理解をしているのですが、間違っているかもしれません。


で。
このキャラ・キャラクターの定義をかなり恣意的に読み変えると

キャラクター:背景の物語があって成立する
キャラ:単体でも成立し、物語を横断しうる

という感じになる訳で。
ではこれらを妖怪に当てはめるとどうなるか。

2.妖怪の発生とキャラ化

ではまず、妖怪がどのように発生するかを考えてみることにします。
色んな発生の仕方があるとは思いますが、まず一つの素朴な型として。

理念化した妖怪の生成過程(ざっくり)
a.怪奇現象の発生
b.主体の仮定
c.属性の追加(外見・特徴等)
d.図像化


具体例
a.ひぃ、置いておいたリモコンがない!
b.それは妖怪「リモコン隠し」じゃ!
c.リモコン隠すぐらいだからちっちゃくて、手が生えててetc
d.(各自思い描いて下さい)


この場合、a.で発生した現象を説明するb.の時点で妖怪が発生します。
b.の時点では、「リモコンがない」という体験談(物語)と
その原因である「妖怪リモコン隠し」の存在は不可分に結びついています。
この場合の「リモコン隠し」は背景に不可分な物語を持つ「キャラクター」と言えるでしょう。
c.の段階でもまだ物語と結びついていますが、一方で様々な属性が追加される事で「キャラ」として成立しやすくなっていきます。
d.に至って図像となり、一部で共有されていた本来の文脈から切り離されても成立するようになる=「キャラ」となります。
つまり、必ずしもリモコンを隠す、という行動を絵の上でしなくても、見る人に妖怪だと認知されるようになるわけです。*2


そしてまた実際のところ、a.からd.に至るまでは一直線ではなく、
a.〜c.までを何度も繰り返すことで属性が増えて行く、ということがままあります。
村の古老システム*3などがフル活用されたりされなかったりしながら、共同体の中で付加された設定が共有されていきます。


具体例
a.山で怪しい奴に会った!
b.それは天狗じゃ!
a.山の中で怪しい音が!
b.天狗の仕業じゃ!
c.天狗って音立てるのかー
a.山の中で石が降って(以下略)
b.天狗の(略)
c.天狗って石降らすのかー

ってな感じ。
こうした場合は、「山の中で何か起こったらあいつのせい」という属性が追加される事で外見等が規定され、「キャラ」になりやすくなると思われます。
おそらく。多分。

3.キャラ先行妖怪

前段では、「怪奇現象の主体として発生した妖怪は物語と不可分のキャラクターであるが、それが特徴を設定され、図像化することで本来の文脈と切り離せるキャラになる」ということを述べました。
これは大体村落などの共同体で発生するものと思われます。

一方で、別の発生の仕方をする妖怪もいます。
たとえば、絵が先にありきの妖怪。
具体的には、鳥山石燕「図画百鬼夜行」の大半の妖怪などがこれに当たります。
「創作妖怪」なんて言い方もあるようですが、これについては、上の発生過程で言うとd.からスタートするという、前段とはまったく逆の形となります。
ここで問題となるのが、どうして図像しかないそれが「妖怪」と判断されるのか。
たとえば「ぬらりひょん」なんかは元々ほぼ図像だけから成立したのですが、何故か「妖怪」と扱われています。*4
また、実は先のキャラクター先行妖怪が図像化したときにも同じことが言えるわけです。
たとえば思い浮かべていただきたいのは、黄桜のCMに登場する河童。ルンパッパ。
彼らは尻子玉を抜く訳でも牛や馬を溺れさせる訳でもないですが、厳然として河童であり、妖怪です。一体これは何故なのか。

描かれたものが「妖怪」として扱われる理由として、まず異形である、ということが考えられます。つまり普通の人間や動物などと違う形、見たこともない異様な姿をしていること。
一つ目小僧、ネコマタ、傘化け、あるいは上記の河童等々。
怪しい行動をしなくても、怪しい外見をしているだけで妖怪である、
というのはまぁ当たり前と言えば当たり前な訳で。

では、描かれた絵が怪しい外見じゃなければ妖怪とは呼べないのか。
あるいは、描かれた絵が怪しい外見であれば妖怪と認識されるのか。


そこでたとえば豆腐小僧という妖怪を例として考えることができます。
要は豆腐を持った少年という外見の妖怪が、黄表紙に登場するわけですが、こいつには特に伝承も何もない。
外見が異常でもなく、行動がさして異常なわけでもないこいつが何故妖怪なのか。*5
豆腐小僧に関して言えば、先行する一つ目小僧や酒買い狸といった妖怪の図像があり、その姿と豆腐小僧の恰好が類似していることが大きな理由として挙げられます。また、おそらくは「小僧」であることが、数多くいる子供の姿をした妖怪への連想を働かせています。
……というように、妖怪と認識されるためにはそれまで蓄積された「妖怪らしさ」のコードを押さえる必要がある、と考えられます。何がしかの妖怪らしいコード(広く言えば「異様な見かけ」も含む)を押さえた外見の図像が、妖怪と認められるわけです。*6

4.捏造される背景(図鑑とキャラクター化)

前段では図像から発生し背景を持たない(=キャラ)妖怪の存在、及び彼らが妖怪として判断されるためには「異形性」及び「妖怪らしさのコード」が重要であるという話を致しました。
さて、彼らは果たして背景がないまま「妖怪」として存在し続けるのか。
媒体によりますが、我々のイメージする妖怪は、やはり怪奇現象を起こす主体として想定されるものが多いと思います。
本来はキャラクターの背景、つまり怪奇現象を伴う伝承を持たなかった妖怪についても、伝承(先の生成過程で言うa.b.)があるかのように語られることが多くあります。
その理由として、妖怪図鑑、あるいは図鑑的な役割をするもの*7の存在が考えられるんじゃないかと。*8
図鑑では伝承のある妖怪(=キャラクター)と、伝承のない妖怪(=キャラ)が「妖怪」として同列に並べられます。
前者は図鑑に載せられる事で地域とその人間に密着した本来の伝承から切り離されてキャラ化し、他の=本来の文脈から離れた物語にも存在できるようになる。
一方で、後者は前者と同様の体裁を整えるために、似たようなものの伝承を当てはめる、勝手に一から物語を作る、などの方法によって背景を後付けで捏造し、元々は「キャラクター」であったことを装わせる。
こうしてキャラクターであった妖怪とキャラであった妖怪は一律に、"キャラクターである過去を持つ(とされる)"・"過去(=本来の背景である伝承、あるいは後付けされた伝承もどき)からはある程度切り離されたキャラ"として妖怪図鑑の項目に載録されることとなります。

5.妖怪図鑑とキャラの再生産

前段に記したような形で、一度妖怪図鑑に収録されたキャラ=妖怪は、様々なメディアで参照されることとなります。小説や漫画などの創作、譬えや冗談、更には実際の怪奇現象の説明にも、その妖怪の持つ過去、つまり発生のきっかけとなった背景やそれと分かちがたく結びついている限定された地域性や作者性等とは関係なく引っ張り出されるようになるわけです。
そしてそれぞれの物語の中で妖怪が必要な位置を占め、その妖怪の新たな物語が人口に膾炙するようになります。これは、背景がなく、文脈から取り外し可能な"キャラ"である個々の妖怪が、それぞれの物語に根を下ろしキャラクターとなった状態と言えるでしょう。
そしてまた、キャラクターは新たに作られる図鑑的なものにフィードバックされ、キャラを変化させる。この運動を繰り返すことでエピソードと属性が付加されたり忘れられたりしながら、妖怪はキャラクター⇔キャラを往還することとなります。
更新され続ける妖怪図鑑的なるものに、キャラクターから、あるいはキャラクターもどきからキャラとして載る事で、妖怪は背景の伝承から切り離しても存在を続けられるようになりました。たとえ伝承が滅びても図鑑には残り続け、また別の物語に根付くことが可能となったのです。

ここまで大いに参照してきた「キャラ/キャラクター」論の提唱者である伊藤剛は「テヅカ・イズ・デッド」の中で、キャラクターを以下のように定義しました。

「キャラクター」とは、「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの*9

また、ここで伊藤が呼んでいる「「身体」の表象」は、大塚英志の言う「死にゆく体」とほぼ同じものとして立論しているようです。*10
つまり、キャラクターはキャラと違って、物語の中で死にうる存在である、と言えます。
そのような意味では、本来の文脈から遊離して「キャラ」となった妖怪たちは、物語の内側での「死」から自由になったと言えるでしょう。
また、更新され続ける妖怪図鑑というデータベースに載ることで、発生のきっかけである物語や共同体自体が消えてなくなることによる物語の外側での「死」からも免れる可能性を手に入れました。

まさに日本一有名な妖怪アニメで歌われていたように、「お化けは死なない」のです。

*1:テヅカ・イズ・デッド」の略称。先日思いついた。

*2:図像化されない妖怪もいますし、図像化だけが終着点ではないのですが、ここは漫画の分析概念をもとにした話であること、図像化のインパクトはやはり強いということで、かなり話を絞ってお送りしています

*3:怪奇現象に対してある種の権威者が主体を特定することで規定される、というシステムを勝手に命名。これについては別に記事を設けて語りたい所

*4:実際のところ、「妖怪」とか「百鬼夜行」とかがタイトルや名前についているから、というのも大きいと思いますが、それを言ってしまうと身も蓋もないので今回は措いておきます

*5:この辺りは京極夏彦豆腐小僧双六道中ふりだし』(講談社,2003)参照

*6:「妖怪らしさ」のコード個々の内容については長くなりそうなので今回深く立ち入りません。(現代の)妖怪イメージを規定するコードについては京極夏彦妖怪の理 妖怪の檻 (怪BOOKS)』(角川グループパブリッシング,2007)などを参照

*7:たとえば一話完結で色々な妖怪が出てくる漫画など。とにかく数多くの妖怪が説明付きで一堂に会するようなもの

*8:奇妙なもののリスト化=「妖怪図鑑的なものへの欲望」とかもあるはずなのですが、本筋から外れる上とても長くなる気がしますので省略。

*9:伊藤剛テヅカ・イズ・デッドNTT出版,2005 p95-p97

*10:伊藤前掲書,p129-134

『もっけ』がいかに妖怪好きの心をくすぐったか、と言うお話。

妖怪漫画『もっけ』の話。

この漫画に関してはナイトメア叢書「妖怪は繁殖する」(青弓社,2006)*1にて国文学な学者の方が論じておられるし、
伊藤剛*2なども各所で触れているのですが、
そんなこととはまったく関係なく思いの丈など述べてみる次第。
半分以上妄想なので誤読上等ということでひとつ。

知ってる人は知ってるだろうし知らない人はこんな記事読まないだろうけど、一応解説しておきますと。
この漫画、ざっくり言ってしまえば
怪しいモノが見える姉と怪しいモノに憑かれやすい妹が
怪しいモノと関わっていく一話完結型のお話。
怪しいモノは当面妖怪と言い換えても問題ないはず。

妖怪と関わる一話完結のお話と言えば、それこそ鬼太郎から百鬼夜行抄まで枚挙にいとまがないわけですが、
もっけ』の凄いところは、そのバランス感覚だと思うわけです。

「妖怪」という話から先に始めますと、
まずこの漫画、毎回タイトルになる妖怪(たまに妖怪じゃない)があり、その妖怪の属性がストーリーに絡んでくる、という作りになっております。その妖怪について語られる、あるいはその妖怪の表す特徴が、通り一遍のところから持ってくるのではなく、妖怪の周辺も含めた細かいところで様々なネタを持って来ているのがわかってニヤリとさせられる。

主に主人公姉妹の祖父が披露する蘊蓄が妖怪ネタ満載ですが、それ以外の何気ないシーンなどにもいちいち妖怪好き心をくすぐる演出があり。
たとえば「#28 ヤマウバ」でヤマウバがいなくなった直後のシーン、ドングリと落ち葉が散らばっている*3のは、能「山姥」で山姥の正体として登場する「熟して谷に落ちた団栗に落ち葉がつき、団栗が目となって山姥となる」という説が元ネタであったりします。
また「#12 ヒョウタナマズ」では鯰絵、大津絵あたりが小道具として使われつつ、実際描かれている妖怪はヒョウタナマズという「伝承が存在しない」妖怪、ただしおそらく本当の妖怪は(おそらくヌラリヒョンであろう)伊福部老人。*4
などなど。

とはいえ、取り上げられる妖怪のネタは濃ゆくてもそれに引っ張られて話が疎かになっている感じがしない。とまぁこれはファンの贔屓目なのかも知れませんが。おそらく妖怪のために話があるわけではなく、妖怪はあくまでも話のための装置なんじゃないかと。まずストーリーが先にありきで後から妖怪を選んでいるのだろう、などと勝手に考えているのですが、京極夏彦がご自分の作品について同じようなことを言っていがしますがうろ覚え。
簡単なように見えて妖怪への愛が走りすぎるとその辺のバランスが難しくなったりするわけです。

また、ストーリーの舞台設定が「日本のどこか」のようなわけですが、あえて地方を設定していないようです。タイトルもカタカナで妖怪の名前なのですが、その名称もおそらく地方性を排するようになるべく普遍的な名前を持って来ているようで。場合によっては「#2 オクリモノ」など妖怪の名称としては存在しないものを持ってくることもあるようです。

同じ行動をする妖怪でも場所によって名前が違う、あるいは同じ名前の妖怪でも場所によって行動が違う、というのは大いによくある話なわけで。舞台及びタイトルで地域を限定しないことで、そのような様々な差異をうまく統合して素材として使っているわけです。

そしてもう一つ、ストーリーの作りの話。
作中で主人公たちはそれぞれ妖怪と交流できる能力を持っている、とされていますが、本当に妖怪がいて彼女らと関わっているのか、それとも主人公たちの妄想なのか、どちらとも読めるようになっています。「妖怪」という説明を入れないでも話の中の世界観が大きな齟齬なく成立するように作ってあるのです。

たとえば、
妖怪が見える能力も憑かれる能力も妄想。それで知ることが出来ないはずのことを知るのは「無意識で感じた・知ったもの、あるいは表面的には覚えていないことを妄想と言う形で出力している」さもなくば偶然。出来ないはずのことができるのは自己暗示による潜在能力の発揮。
と見ることもできます。
妖怪側からの視点がほとんどないことも、そうした読み方を補強しているとも言えます。

ただし、基本的に怪しいモノと関わる能力を持っている人間を主人公に話を進めているため、「意識してそう読めばそうとも読解できる」というレベルには抑えられています。とはいえ、主人公たちの妄想、として読み解く余地をあえて残しておくことで、単なる妖怪物にはない雰囲気を生み出しているのではないかと。

大抵怪しいものと関わる漫画といえば、怪しいモノと関わる人だけがより真実の世界に近い姿を見ている、見えない人は世界の限られた姿しか見えていない、というストーリーになることが多いわけです。
しかし前述のように『もっけ』では見える人の見る世界が必ずしも正しい、という構造をしてはいません。見える人それぞれでモノの見え方が食い違っているというエピソード(#36 ヌッペッポウ)などは、妖怪は受け手にその外見を依存する=妖怪やそれを含む世界観に「唯一の正しい姿」がないことを意味しているようです。

こうした姿勢は1話目の「#1 ウバリオン」から表れています。
この話はその場に見える人間である姉がいなかったならば、
「調子悪くなったけど、助けられて回復した」
というだけの話なわけで、何一つ不思議なことが起こっていない、とも解釈できる話です。見えていることが逆に物事の解決から遠のかせる、という話が1話目から登場するというのはこうした漫画としては非常に珍しい気がします。
見えることで逆に「考えの幅狭めちゃってた」というセリフ*5はある意味で象徴的なのではないかと。

また、主人公たちも自らの世界観に自覚的です。
たとえば「#23 ジャタイ」の最後での姉妹の
「私達も何にも思わなければ 見る事も憑かれる事も無いのかもね」
「お姉ちゃん そりゃ難しいよ」
「うん」
という会話*6などにそれが強く表れているわけです。

周囲の大人が彼女ら主人公の能力を「病気」と扱うシーンも多く見られます。
いわゆる常識的な世界観で言えばそれも間違いではありませんし、妖怪が当たり前のように登場する作品世界の中ですら完全に間違いとは言えないようです。
そうしたことを踏まえると、伊藤剛が『もっけ』の物の怪を「身体や心の変調」あるいは「心身症」のメタファーと読んでいる*7のも作者の意図したところを鋭く射ている気がします。

で、
ここまで長々とわかったようなわからないような話を書いてきましたが。
表題の「いかに妖怪好きの心をくすぐったか」ということについて。

1つは先述のようにちりばめられた濃ゆい小ネタのため。
とはいえ妖怪に引っ張られてストーリーが破綻しないそのバランス。

そしてもう1つは、妖怪がいるともいないとも言える世界観そのもの。
どちらともとれるような描写も、やはりバランス感覚のなせる技だと思うわけです。
現在「いない」のが常識とされている妖怪を、漫画の中で「いる」とするのはある意味簡単な話ですが、妖怪はもともと「実際はいないがいるとされた」とか、「いないけど信じる人にとっては存在する」など、「いる」と「いない」の間に存在するものであり、単純に「いる」としてしまっては妖怪の片方の面しか楽しめない気がします。
妖怪が「どのように存在しているか」ということは、取りも直さずそれを感じる人間が(共同体のバックボーンを踏まえつつ)「どのように理解・把握したか」ということなわけで、「バックボーンとなる過去の妖怪知識」が踏まえられた「主観でのみとらえられる妖怪」が登場する『もっけ』はある意味でもっとも妖怪らしい妖怪漫画なのかなぁ、などと思うわけです。

主人公姉妹を教え導く立場の祖父についてとか、ビジュアルのないものが多いはずの妖怪をビジュアル化するにあたって(水木の影響なども含めて)どうするのか、とか、雑多に語りたいことはまだまだあるのですが、それはまたいずれ、ということで。

長く書きすぎたので意味が分からなくなっている気配がする恐怖。
わかんなかったらごめんなさい。

2009/1/26 文法的に意味がおかしい所などをちょいちょい修正。勢いでupするのは良くないね。

もっけ(勿怪) 1 アフタヌーンKC

もっけ(勿怪) 1 アフタヌーンKC

*1:妖怪は繁殖する (ナイトメア叢書)

*2:伊藤剛については今後某ソワカちゃんなどで触れることもあろうと思っていましたが、こんなところで触れることになるとは。

*3:もっけ』5巻 P145

*4:なぜヌラリヒョンなのかという話をしだすと長いので省略。瓢箪とか鯰とかがヌラリヒョンと関わってたりするのです

*5:もっけ』1巻P18

*6:もっけ』6巻 P170-171

*7:http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/comic/007.html

先日放送したさるustream放送についてのうろ覚え的覚書。

どこぞの例会でラジオ的なショーをした時のお話。
某氏メインのラジオでゲストのつもりで色々しゃべくってきました。

一応ラジオのテーマであったはずの「オカルト的小ネタ」は
全くと言っていいほど思いつかなかったので、
丑年にちなんで件のクダンの話をしたりしました。

まぁ件といえば広くて深くてズブズブなので突っ込みだすときりがないのですが、
そこはうろ覚えといい加減と知ったかぶりを駆使して適当な話を繰り広げたり。
その辺りのことを思い出しながら書いてみようと思います。
脚注は放送時にしゃべった内容の補足・訂正など。


まず件といえば
「人の顔に牛の体、生まれて数日で予言をして死んでしまう。
 しかしその予言は必ず当たる」
という妖怪。

瓦版などに描かれて、
「疫病流行るぜ。でも俺の絵姿もってれば大丈夫!」
とかそんな感じの予言をした、とされています。

そうした文言の前後に、
「人に牛と書いて件だから人の顔で牛の体」
だとか、
「昔から書状の最後に嘘偽りないという意味で
 "依って件の如し"と書くのはここから来ている」
だとか言った説明がつくのがお約束。

"依って件の如し"というフレーズはもともとあるので、
字面の冗談から生まれたメディア先行の妖怪じゃないか、とか、
いやいや、人面牛ミイラがあるんだから実態が先だろう、とか、
色んなこと言われていますね。

ustの方では白澤との関わりとかをつついてたのですが、長くなるうえに曖昧でまとまらないので略。
ちなみに白澤とは中国の神獣で多くの妖怪を知っており、絵を持ってるだけで災難よけになったりする奴。
場合によっては牛風味。
中国に源流のうち一本があるんじゃないかな、て辺りで。


で、予言する妖怪にはもう一つ別の系統もある訳で。
これが人魚もしくは人面魚です。
たとえば神社姫と言われる妖怪は首が人間、体が魚、頭に角。
これまた瓦版に登場。
ちなみに脇腹に目がついているのですが、これは白澤とも通じる特徴。*1
他にもアマビエ、あるいはアマビコと呼ばれるものなど。

ついでにその時にいたのが新潟某所で、当地に伝わる人魚のミイラを見学に行ったのでそんな話もしつつ。*2

一通りそんな話をしたところで、しゃべくりの相方である某氏からの質問。
1.何で人間の顔してるの?→人面じゃないと予言しゃべれないじゃん(多分)

2.それって畸形なんじゃね?と。→それは確かにそうです。
件のミイラは牛の畸形児ぽいし、
神社姫な人面魚はそういう魚かもしんない。*3

それを踏まえて某氏。
 西洋の「モンスター」はもともと畸形児を指し、デモンストレーションと同語源。
 見せる、あるいは見る、という意味で、神からの啓示を意味したとか。
 予言ではないが、神の威力を示すためにいたもの。
 件と一脈通ずる所があるような気がするんだがどうだろう。
とのこと。

そこで再び私の一人語りモード。

中国に天人相関説というものがあり。
時の政治が悪いと天がそれを感じて警告として災害を起こしたり謎の動物を出現させたりする、という考え方。
これがあまりにひどいと革命が起こる根拠となる。
逆に善政をしけば瑞祥として麒麟が出たり白い鳥が出たりする。

この説は日本にも輸入されるが、
問題は日本には代々テラヤンゴトナスなお人がいらっしゃるので、
どんな災害が起こってもどんな奴が出てもテラヤンが悔い改めて善政をしけばいいという話になってしまい、
革命の起こしようがない。ある意味出来レース
で、何か起こった時にやんごとない人の何が悪かったかを解釈する機構が律令国家には配備されていた。
ただし中世辺り以降、律令制度が機能しなくなるとこのシステムも機能しなくなる。*4

本来は異常の発生に対してその意味を解釈・判断するシステムがあったため、
異形の獣はその姿を現すだけで充分であり、自ら予言する必要はなかったのだが、
異常を解釈するシステムを持たない小さな共同体に対して、
異形の獣たちは自らに意味と権威を与えるため予言獣として喋り出さざるを得なかった。
……と、どこかで聞いた気がするが気のせいかもしれない、という尻すぼみ的結論。


ただ、ここで面白いのが、『漢書』「五行志」の記事。
前漢の歴史書漢書』の中の一巻で、起こった怪異・災害とその発生理由の考察が記されているのが「五行志」。

漢書五行志〔カンジョゴギョウシ〕 (東洋文庫)
その中のどこかに
「牛が人語を話した、これは時の皇帝がどうたらで政治が乱れたためである」*5
的なことが書いてあり、
その後に「牛の予言は必ず当たると言われている」と付け加えられていたこと。

他の動物がしゃべったという記事では確かこんなことは書かれていなかったので、
何故牛だけ特別扱いなのか気になったりしたりしました。
江戸時代登場のクダンと漢代の歴史書におよそ1800年の時代的隔たりがあるわけですが。
「絶対当たる牛の予言」ということで、そこに何らかのつながりがあったら面白いなぁ、
時代と国をつなぐような証拠が出てきたら楽しいなぁ、
などと妄想を繰り広げてみたりする次第。

そんな話をして満足したのでした。

追記:
あとで資料などを見直したところ、予言する奴は「本体でも絵でも見ると徐災招福」なパターンが多いようで。
予言しないけど見ると徐災招福という動物も多いようで。
なんかその辺の裾野の広がりとかもうちっと見直したいなぁ、と思ったり思わなかったり。

*1:と放送では言ったのですが、実際のところは人面魚限定でもなく。人面亀とかも予言をしていたはず。

*2:この新潟某所の人魚のミイラは、水木しげるの漫画「死人つき」のイメージソースのひとつ。ストーリー自体はゴーゴリの小説「ヴィイ」の翻案ですが。この漫画が気になっていたのでその満足した次第。

*3:あんとく様!海竜祭の夜 妖怪ハンター (ジャンプスーパーコミックス)

*4:実際この辺りの私の理解はテキトーにもほどがあるので、気になる方は『怪異学の技法』辺りを読むと良いはず。怪異学の技法

*5:正確なところは忘れました